そこにきて、孫策をもっとも憂鬱に悩ませたのは、焦る毎日で手紙が届き、周瑜が舒城で結婚するという話だった。孫策は家人に命じて結婚のお祝いを用意して舒城に送らせた。
そして、ついに孫権はお兄ちゃんの幕舎に誰もいないことを発見してびっくりした。孫策の傍に仕える兵士に尋ねてみても、兵士は口ごもりながら言った。
「孫校尉は着換えて、軍営地からおでかけになりました」
孫策は三日経ってやっと軍営地に帰ってきた。戻ってきたとき口の端に傷があり、右眼も鬱血ができていた。
孫権は目が飛び出るほど驚いた。
(お兄ちゃんは常日頃自分の顔を惜しんでいるのに、どこの見知らぬものが孫策の顔に挨拶をくれたのか)
孫権は思った。
(そいつはたぶんもう首と体が別々になっているのだろうか?)
「お兄ちゃん。山賊にでも遭ったの?」
孫権は明らかなことを訊いてみた。
「お、おう。オレはおまえの公瑾お兄ちゃんのお祝いを送りに行っただけだ。帰り道で山賊に遭ってな。おまえの言うとおりだ」
孫策は孫権に指を突きつけた。
「なんでまだ勉強しに行かないんだ。軍営地で何をしているのか」
「え、ぼくはそれじゃあ行くよ」
孫権はぷんぷんしながら出て行った。孫策はいつもなら孫権の勉強など気にもかけないのに、今日はどうしてか思い出した。
次の日の早朝、孫権は孫策が一人の側仕えの兵士に手紙を持たせて行かせるのを見た。
「お兄ちゃん。お母さんに手紙を書いたの?」
「ちがう。公瑾あての手紙だ」
「お兄ちゃんは公瑾お兄ちゃんのところから帰ってきたばかりじゃないの。またお手紙を書くの?」
「シッシッ、あっちいけ。勉強しろ」
三日後、あの兵士は帰ってきた。そのものが云うには、返事は無いと。孫策はまた手紙を書いた。
さらに三日後、兵士は戻ってきた。相変わらず返事は無かった。
舒城からの返事は無かったが、一方、曲阿の呉夫人から手紙が来た。手紙では、何度も孫権の軍中でのことを心配し、折を見て学堂に通わせたほうが、衣食や暮らしも適当な世話が受けられるのではないか?と。また孫策に言いつけて、自分の軍務にかまってばかりではなく、孫権はだんだん成長しているのだから、少しでもよい先生について学べるようにしなさい、と。聞けば、袁氏一族の学堂は悪くないそうだから、孫権の入学を申込みしてやりなさい、云々。
「袁氏の子弟にお坊ちゃま方は多い。鷹狩りや犬レースで遊びほうけている集まりだ。行かないほうがいい」
孫策は納得いかない様子で母からの手紙を押しやった。
「見聞を増し、学識を増す。これらはオレと過ごすこととは同じではないが……」
孫策の話し声は突然止まった。なにかを思いついたようで、視線がじろりと孫権を捕らえた。
「お兄ちゃん、なんでぼくを見ているの?」
孫権は自分の小っちゃい顔を擦った。なにも汚れはついていなかった。
孫策は上半身をやや屈めて、顔にきらきらとした微笑みを浮かべた。
「仲謀、オレは覚えているぞ。ちょっと前に、おまえがオレに言ったよな。おまえはとっても公瑾が好きだって」
「えっ?」
孫権は俯いてもじもじして言った。
「ぼく言ったっけ?」
「オレが思うに、袁氏の学堂に行くよりも、おまえを公瑾のところでしばし遊学させるほうがいいと思う。おまえの考えはどうだ?」
「そ、それは」
孫権はもじもじして言った。
「ぼくもそれほど嬉しいわけじゃないけど、どこでも一緒だし、でも、どうせ……お兄ちゃんは……」
「それじゃあ決まりだな!」
孫策は孫権が話し終わるのを待たずに、太ももをパァンと叩いて決めた。
呉夫人に手紙を書いて、孫権を舒城の周瑜の先生に付かせると書き、呉夫人も了承した。
五日後、孫権は十数名の随従する護衛と舒城に着いた。周家の屋敷に名乗りでると、青い袍に身を包んだ周瑜が中から出て来て、馬車の前に立つ小さな影を見て満面に驚きを浮かべた。
「仲謀、きみどうして来たんだい?」
孫権は顔を上げて訊いた。
「お兄ちゃんは手紙でぼくが来ることを知らせてないの?」
周瑜は首を振った。
「ないよ」
「え、それでももう来ちゃったよ」
孫権は馬車の方へうろうろとした。
周瑜はため息をついた。家僕に客房の準備を言いつけ、走り寄って孫権の小さな手を握った。
「太陽の真下に立っていないで、真夏で乾燥して暑いよ。中に入って話そう」
孫権はぴったりと周瑜にくっついて中へ入った?。歩きながらぶつぶつ呟いた。
「ちがうんだ。自分で来たいと言ったわけじゃないんだ。ぼくもお兄ちゃんに公瑾お兄ちゃんが好きだとかなんとか言ってないんだ、完全にお兄ちゃんの考えなんだ」
「わかった。」
周瑜は俯いた。
「じゃあ、仲謀は何のために来たんだい?」
「ぼくは遊学に来たんだ」
孫権はちっちゃな手を周瑜の手のひらにのせて言った。
「お母さんが、公瑾お兄ちゃんは義兄だから、ぼくを少なくとも半年、一年遊学させるって。お母さんが言ってた」
周瑜はちょっと微笑んで、少し考えた後に言った。
「謹んで義母の教えに従います」