策瑜で三国志ブログ

一日一策瑜 再録しました。三国志、主に呉、孫策、周瑜について語ってます。基本妄想。小ネタを提供して策瑜創作してくれる人が増えたらいいな。

剣劇 太史慈について考える。

太史慈がかっこいい」と散々言っていたが、なぜあんなにも惹かれるのだろうか?

もちろん役者さんがよかったというのもある。どの辺がいいのか。

ひっそりとたたずむ姿に、太史慈の孤独、故郷を喪失した寄る辺無さがありありと感じられたからだと思う。

冗長になるが、太史慈の略歴を追ってみよう。

身長七尺七寸(180㎝弱)髭が立派で、腕が長く弓に巧みだった。

劇中では、すらりとした姿がマッチしていた。弓属性だが、武力はあるのであの切れ味抜群な殺陣は方向性としては合っている。

青州東莱郡という北方のひとである。また学問を好んだとある。若くして郡の役人として勤めている。この郡役人のとき、21歳のころ事件は起こる。郡と州の間に揉め事が起こりそれぞれ中央政府に訴え出ることになった。州の方が先に訴状を発送していた。郡では遅れを取り返そうと使者を選んだところ太史慈が選ばれる。都で州の役人を見つけると「表書きを確認してみろ」と注意する振りをして相手の州の訴状を切り捨ててしまった。「これではおれたちは咎められるから逃げよう」と説得し、城門を出たところで舞い戻り、郡の訴状を都に届けることができた。(先に届いた方が有利)彼は任務には成功した。だが、このことが原因で州の役所から憎まれ、地元を追われることになる。

 しばらく遼東に身を隠すことになる。この間、太史慈の評判を聞いた孔融孔子の子孫、文人としては当時最高峰だが実務能力は欠けていたらしい)という北海国の長官が太史慈の母に贈り物をして友好的な態度を示していた。太史慈が遼東から戻ってきたとき、孔融はちょうど黄巾賊に攻められ包囲されつつあった。太史慈の母は恩義を感じて息子に孔融を助けに行かせた。太史慈は夜の闇に紛れて孔融のもとへと駆けつける。そして兵士を借りて賊を撃ちたいと願い出る。だが太史慈を評価していたはずの孔融は許さず、援軍が来るのを待っていた。しかし、救援は来ない。包囲は日ごとに厳しくなる。孔融は隣国の平原国の長官の劉備に助けてもらいたかった。だが誰も使者になるものがいない。太史慈は名乗り出る。その包囲からの脱出方法も一風変わっている。二人の騎兵を連れ、それぞれに的を持たせて置くと、馬に乗った太史慈は射貫いた。次の日も同様に的を射貫く。最初は賊も注目していたが、三日目ともなると誰も気にしなくなった。そこを太史慈は囲みを突き抜け、ついでに数人射殺している。劉備は有名人の孔融が自分のことを知っていたと感激して太史慈に三千の兵を付けて帰してくれた。黄巾賊は逃げ去った。孔融はますます太史慈を尊重したとあるが、将としては採用していない。

孔融に前途の見込みなしと見たか、太史慈は同郷の劉繇を頼ることにする。南へ向かう。そこに孫策が攻め込んでくる。劉繇配下でも太史慈を評価する者はおり、将軍に任じた方がよいと勧める者もいた。しかし、劉繇は偵察任務しか与えなかった。

そこで運命の一騎討ちが発生する。

本当のところを言うと、大将クラスの一騎討ちは厳禁である。ある程度の身分になると、統率が優先で直接戦闘は禁止なのである。しかし、孫策はそんなことは守らない。演義より正史の方が呉はおもしろいです。

太史慈は騎兵をひとり連れ、孫策韓当黄蓋ら勇猛な部下たち十三騎を連れての一騎討ちであった。孫策太史慈の馬を突き刺し、手戟(短い武器)を奪い、太史慈孫策の兜を奪った。そこで双方の兵士が集まってきたので水入りになった。

この後、劉繇は敗北し逃亡する、太史慈は途中分かれて独立行動にでる。評価されないことに、将として扱ってくれないことに焦れたのだろうか。涇県というところで丹陽太守を自称したところ、地元のまつろわぬ民の山越らが帰属する。

ここは太史慈のカリスマ性がでている。劇中の全国から集まる兵士というのもあながち間違っていない。

孫策に負け、捕らえられ、また解放されて60日の走れメロスをやったのは劇の通りである。

孫策は一騎討ちのことをよくよく覚えていて、かつこれまでの太史慈のことを知っていた。兵士を預け折衝中郎将に任じている。中郎将は低い官位に思えるかもしれないが、孫策自体が雑号将軍なので仕方ない。ここでは特に「折衝」というのが、むかし孫策袁術に折衝校尉に任じられているのに注目して欲しい。自分のかつて経験した官位を与えるのは期待している証拠なのである。それだけ太史慈への孫策の信頼は大きい。

それから孫策太史慈の力を大いに発揮させた。南方の治めがたい土地も任せた。まだ未開発ではあるが、南方航路につながる要地でもある。41歳で病死するまで、孫策孫権には信頼されて任されていた。

死ぬとき、「漢なら、世に生きては七尺の剣をもち、天子のきざはしに登るべきものなのに、ここで死ぬとは…」…なんか山っ気の多いこと言ってもいますが、息子もしっかり出世して要職を務めています。

呉にきてしあわせだったんじゃないだろうか?

そのあたり孫権との絡みで感じさせてくれますよね?居場所ができたと。一緒にだんご(小麦圏から米圏へ移ったからめずらしいんだよ)を食べる友ができた。故郷を失い居場所がなかった彼が再び安住の地を得たのだと。それも孫策の願った国づくりのひとつだと感じました。

太史慈には、孫権ボディガードの周泰の要素もちょっと入ってるかなと思いました。孫権周泰という武人を気に入ってお兄ちゃんに「周泰ください!」ていうと、お兄ちゃん優しいからくれるの。周泰孫権を必死に守って重症になるまで戦うの。後年、周泰が将軍となると、部下が従わない(呉の国よくあるある)。そこで孫権周泰の服を脱がせて、この傷はいつの傷か尋ねる。そこで周泰がどれだけ孫権に尽くしてきたかみんな認めるわけなんですよ。

最後周泰の話に逸れましたが、わかってもらえました?

剣劇太史慈の孤独が救われた話でもあることを。

すくなくともわたしはそう感じています。