策瑜で三国志ブログ

一日一策瑜 再録しました。三国志、主に呉、孫策、周瑜について語ってます。基本妄想。小ネタを提供して策瑜創作してくれる人が増えたらいいな。

よちよち漢語 三 需要愛先生 「思為双飛燕」

二章 子寧不来

 孫権はずっとお兄ちゃんと自分との差は年齢によるものだと思っていた。
 しかし、年齢を重ねていくに随い、彼は発見した。お兄ちゃんができて、自分にはできないことを。
 たとえば、七歳の孫権についていうなら、この眼の前にある小さな石臼を持ち上げようとするのは、天に昇る如く難しい。この小さな石臼は、かつて有名だった。孫策が七歳の時に持ち上げたからである。
 七歳の孫権はくるっと回って学堂に戻ることにして、もう石臼のことは考えなかった。もし、石臼をまったく持ち上げられないというのなら、最低限でもお兄ちゃんよりできる方面、たとえば勉強とかがある。
 学堂の先生はとても孫権がお気に入りだった。孫権が人並み優れて賢く、勉強熱心であり、幼いうちから『戦国策』『韓非子』など難解な本を好んで研究していたからである。授業のときには、孫権は堂々と発言し、君主が臣下を御する手段について議論し、主君の臣属に対しての制衡をとることの重要性を指摘した。聞いていた先生は髭を撫でて笑い、
「権くん、この子は志向遠大で前途前途洋々として計り知れない」
と言った。
 孫権は肌身離さず一冊の竹簡をもっていて、やることがなく暇な時に、引っ張り出して来て勉強して得た知識や目上の人の教誨の言葉等々いっぱい書き散らしていた。
 天下、お嫁ちゃん、奪うことの快感、臣下の操縦、深く秘めて表さないこと、それからお兄ちゃん、石臼、挙げられない等等……。
 今日、学堂での授業は孫権の好みとは違っていた。孫権がもっと好きなのは謀略とかそういった書物であり、『詩経』や先生が首を振りながら読む、
「青々たる子が衿、悠々たる我が心、縦え我往かずとも、子寧ぞ音を嗣がざらんや(手紙を出してくれないの) 青々たる子が佩玉、悠々たる我が思い、縦え我往かずとも、子寧ぞ来たらざらんや、挑たり、達たり、城闕に在り、一目見ざれば三月の如し」※ラブソング
 孫権の意識は窓の外へ飛んでいた。同級生が少し離れたところで楽しそうに笑いながら走り回っていたのが見えた。彼らは学堂には来ないで早々に抜け出して遊んでいた。
 孫権は内心蔑み、又ちょっと羨ましくも思った。
 なぜかわからないが、孫権は眉も髪も白いおじいさん先生には深く気に入られていたが、同級生からは歓迎されず子どもたちとはギクシャクして相容れなかった。
 孫権は自分が頭が良すぎて小さい友人とは同調できない。彼らが退屈な泥遊びをしているころ、孫権の頭の中では、もっと遠大な事、いかに人と戦って破れないかの類いでいっぱいだった。
 お兄ちゃんの孫策さえも孫権の頭の良さをほめていて、孫権は心中で誰とも自分と遊んでくれようとしないのは賢さの代償なのかと思った。
 あるときがっかりして悲しかった。
 お兄ちゃんの孫策が手を挙げて声をかけただけで側からあちらこちらから雲の如く反応して集ってきたのを見たとき。
 彼らが家に招かれて痛飲して話に花が咲いているとき。
 孫権は自分の冷たい同級生を思い出して辛くなって顔を背けた。
 孫策の友人はとても多かった。
 ただし、孫権が覚えているのは多くはなかった。彼は自分の学業に専念していた。
 しかし、一人だけ孫権がずっと覚えていたのは、あの三歳の時に出逢った周家の周瑜お兄ちゃんだった。
 周家の家は舒城にあり、彼らとは同郷ではなかった。
 だが、彼らが何度か引っ越しした後にもお兄ちゃんを訪ねてくるのは周瑜だった。
 そして、彼は毎回手ぶらでは来ず、いつもちょっとした珍しい玩具を持ってきて、孫策の弟妹達に配っていた。
 けれど、それは稀なことではなく、本当に孫権がしっかりと周瑜を覚えていたのは、孫策周瑜が何度も口げんかをしていたからだった。


詩経 難しい…。