光源 上
二年間順調に企画編集者として出世した若者として、陸遜は雑誌『都市』の中で原稿は遅れないという名声を誇っていた。しかし蜜月から帰ってきて、青梅の飲みかたとその物語をだいたいは理解したものの、彼は遅々としてパソコンのワードの上では一文字も書けていなかった。さらに自分が満足するまとまった内容ができあがらなかった。
目を閉じ、頭の中で浮かんだのはあの周瑜の優しくいささか偽りを含んだ顔だった。そしてカウンターのなかで一言もしゃべらずにいた焦げ茶色の服の青年。
「そんなに単純なことではないな」
陸遜は心の中で自分に言い聞かせた。彼はぼんやりと感じていた。
まだ聞いていない残りの六つの物語も蜜月との関わり合いがよくわからないし、さらには一つのスイーツの紹介も書けていなかった。
次の日、午後の休憩のピークが終わるのを待たず、陸遜は早々と蜜月にやって来た。孫策と周瑜は二人とも不在のようで、辺りを見回すと、孫尚香のいささか怒った顔が現れた。
「おやぁ、編集者さん、今日はわたしはあなたの相手をしている暇はないわ。忙しいの」
昨日陸遜が自分の名前を名乗らなかったことを気にしているようだった。孫尚香は軽く睨んでフンと鼻を鳴らした。陸遜はあきらかに自分より背の低い少女が自分に対して鼻を突きつけているように思えた。
「瑜兄さんたちはみんな留守なの?わたしが手伝うよ」
大人ゆえ十代の少女と口ゲンカをするわけにもいかず、陸遜はコートとかばんをカウンターの下にしまい、孫尚香に手伝う意思を見せた。
「あぁやめてよ!」
陸遜が腕まくりしてコーヒーを淹れようとすると、孫尚香は嫌そうな顔をしてコーヒーの缶を奪い取った。
「瑜兄ちゃんはすぐに戻ってくるわ。彼はもう今日あなたたちの雑誌のおすすめにするスイーツを決めていたわ。あなたはここに座って食べてみない?わたしのお仕事の邪魔をしないでちょうだい!」
「わかったよ。それじゃあ瑜兄さんが帰ってくる前に食べるよ」
本来時間を早めて来たのは、早めにスイーツを味わってから、周瑜の物語を聞く心の準備をしておくためだった。陸遜は孫尚香の挨拶もそこそこに、半円形の黒いスイーツを受け取り、味わおうとした。
「これは光源、うちの店では注文するのは少数派ね……とっても苦いの。わたしは苦手」
孫尚香はスプーンを陸遜に差し出した。彼が大きくすくい取って口に入れるのを見て、にこにこと笑い彼に少しも甘くないことに気づかせた。
「……お水をくれないかな?」
アイスクリームのような滑らかさとブラックコーヒーのような苦さが口の中で混ざり合い、苦みが口の中で広がった。陸遜はこっそり苦いと叫びながら、孫尚香に助けを求めた。
「ごめんなさいね……」
視界のうちに陸遜の手招きを入れながら、孫尚香は楽しそうに笑った。
「瑜兄ちゃんが言ったわ、あなたが光源を食べ終わるまで、水を飲ませないようにって!」
「べつに遜くんをいじめてるわけじゃないさ。みんなうちの店のために原稿を書いて貰うから、協力さ協力しなきゃ」
聞き覚えのある声が後ろから聞こえた。周瑜の出現は苦さに水を求めて得られない陸遜にとっては一陣の雨のようだった。
「瑜兄さん、これ……ひどく苦いよ……」
周瑜がニヤニヤ笑いながら陸遜の頭を撫でた。「遜くん、ためしに完食してみて。最後には意外な驚きがあるから」
「なんの冗談、瑜兄さんもそんなチンピラみたいにニヤニヤ笑ってるの?」
内心不満だったが、陸遜は半信半疑でスプーンでスイーツをすくって食べていた。ブラックコーヒーのクリームの奥にナッツのようなかたまりに突き当たった。
舌に感じる苦さはなんと言ったらいいかわからず、それを表現する言葉がどこにあるだろうか?
「おい、高校の初めての期末テストお前も寝ちゃうつもりなのか?」
きっちり身なりを整えた周瑜は自分の紫色のダウンジャケットを孫策の顔の上に投げつけた。言葉遣いはお役所みたいに気持ちがこもっていない。
「めんどくせぇ、勝手にしろ」
よく知った匂いのダウンジャケットを投げやり、孫策は周瑜にかまわず背を向けた。
「いいさ、勝手にすれば」
孫策の寝室は鍵が掛けられた。周瑜は自分の鞄をまたいで玄関に向かった。普通のルームメイトのように相手に試験まであと一時間だと注意するようではない。さらに親密な友だちのように相手をベッドに呼んでいるようでもない。彼に言わせれば、毎日早朝睡眠をむさぼる孫策に声をかけるので同居人としての責任を果たしている、孫策が起きるか起きないかは自分には関係ないことだと。
ことのはじめは、二人が周瑜の両親の家からこの2DKの部屋に引っ越してきた三年前に遡る。
小さい頃から一つのベッドに並んで眠り、一つのテーブルでごはんを食べ、何のためかわからず兄弟の契りを交わしてさえいた。孫策と周瑜は両家の父母の心の中では血の繋がった兄弟よりも絆の深い兄弟達だと思っていた。小学六年生のころ、ときどきゲーム機を巡って団子のようになってケンカするほか、二人は順調にこっそり悪いことをしたり、隙無くパパママを騙していた。周瑜の家に住むこと六年、一人しか子どもの居ない周家のパパママの心の中では、孫策はもはや周瑜と同様に自分たちの大事な宝物のような子どもだった。
しかし、十歳ごろのこどもにとっては、一日同じように身体は成長しても、周瑜はいわずもがな二人のベッドはだんだん思春期に進んだ男の子が並んでは居られなくなった。周瑜の寝室にもう一つベッドが置かれた。だが長いこともつものではなかった。三年前の春節、春節に帰ってきた孫家のパパママは例によって周家でごちそうを共に食べ、成長した息子を眺めた。両家は話し合って六年間孫家が留守にしていた部屋を二人の子ども達の学習専用の部屋にすることを決めた。二人は進学するときに孫家に住み、週末周家に戻ってごちそうを食べた。
中学に進んだばかりの元気がありあまる子どもにとって、両親からのしつけから離れて子ども同士で同居することは非常に大きい喜ばしいことだった。同級生と遊ぼうとして、一味で家に帰ろうとも出かけようとも管理されないのだ。最初、周家のママと孫家のママは少し子どもだけにしておくのは不安だったが、周瑜が正月のごちそうをみんなで食べているときに間違いなんて犯したことのないよい模範生ぶりを示したので、ついでに孫策も四人の家長から「周瑜が孫策をちゃんと面倒見る」との錯覚が生まれた。そこで両親は手を放し、子どもは自由になった。
「学習専用部屋」に引っ越すなり孫策と周瑜は見張りの居ない自由な生活となり、孫策に言わせれば、「オレ様は生まれてこの方こんな爽やかなことはない!」と。
しかし、良い時期は長くはなかった。青春真っ直中の男の子は身長が伸びるのを除けば、怒りっぽく変わってくる。二人は反抗期の数年間に突入し、2DKの部屋の中では口ゲンカが広げられ、センチメンタルなおふざけからますます激しい冷ややかな嘲りと辛辣な風刺に取って代わられた。
今日周瑜が孫策の新しく染めたての髪が野暮ったいビルの下の毛の抜けた年取った犬みたいだと馬鹿にして笑うと、翌日には孫策が周瑜のことを人によって態度を変える、若くしてつまらない大人みたいだと軽蔑するのである。幸いにもどんなに相手が感じが悪くても、孫策と周瑜はまだ長期的に生活するという暗黙の約束を守っていた。毎週末にはにこにことして周瑜の実家に行きごちそうを食べ、年越しには両親の目の前ではお互い学校ではまじめに仲良くやっているとふるまっていた。
「兄ちゃん!兄ちゃん!早く降りようよ!」
バスでうとうとと眠りこけていた周瑜は側の幼い「兄ちゃん」という声で目を覚ました。
振り返ると六、七歳ぐらいの男の子が 自分の兄の手を引きドアに向かった。
「ちぇっ、お前の兄ちゃんじゃねぇよ」
昔のよくわかってもいない頃の兄弟の契りを思い出し、周瑜は思わずこっそりと首を振っていた。
「人間って若くして無知だなぁ、誰があんな奴と同年同月同日に死にたいもんか」
八時三十分、目覚まし時計が長いこと鳴りつづけていたが床に蹴り飛ばし、ついにパンツ一丁の主が拾い上げた。
「くそっ、あいつもうるさいし、こいつもうるさい、おまえらみんな放り出しちまおうか」
鏡の前で染め上げられた淡い金色の髪を立てて、孫策は額を露わにして少年独特の傲慢不遜な様子を見せていた。周瑜がさっき投げて寄こしたダウンコートを羽織り、不良少年らしくフンと鼻を鳴らした。
「まじめな学生の服だな」
しかし、そうは言ったものの、孫策は仕方なくそのまじめな学生の服を着てテストに向かわねばならなかった。少し前に周瑜が二人の冬服をドライクリーニングに出してしまったようで、彼の唯一の一着は昨日ケンカの時に河辺に忘れてきてしまった。
本当のところ、孫策は周瑜のことが好きだ。でも彼が人前でよい子の振りをするのが気に入らなかった。孫策はよい子っぽい周瑜のお馬鹿さ加減を見通していておかしくなった。
だが、周瑜はさほど孫策のことが好きではなかった。でも、自分と共に成長してきた兄に対して一切相手にしないなんてことはできないし、周瑜はもし自分が孫策のために両親や先生の言いつけを守らなかったら、現在のように世間の温情というもの知らなかったと認めるだろう。
期末テストが終わった夜、学生はやりきったと喜び祝うものだが、孫策と周瑜は部屋に入るなり口ゲンカを始めた。
「明日堅おじさんが出張で来る。うちの実家に食事に行かなきゃならない。きみは今日の格好で行けよ」
ショルダーバッグを放り出し、周瑜はさっそくテレビに向かってゲームを始めた。
「あ?オレたちの服はまだ取ってきてないのか?」
両手に提げたドライクリーニングの袋を持ち上げて、孫策は自分はもう周瑜の服を着ないと表明した。
「きみの服はケンカに着ていったろう、どうして、久しぶりに会えるお父さんに見せられると思うんだ?」
一人ゲームにのめり込み、周瑜は淡々とした口調のなかにもいつもの揶揄いが含まれていた。
「どういう意味だよ」
孫策の声は小さく、二つの袋を床に投げた音はかえって大きかった。
「その意味は、お父さんに会いにいくのに、そんな服を着ていると、わたしまできみと一緒に叱られてしまう」
頭を動かすことも面倒で、ゲームの画面に集中する周瑜はまったく孫策の暗くなってきた顔色に注意を振り向けなかった。
「ぱー」
電流が流れる音がして、電源が抜かれてテレビ画面は真っ暗になった。反応しきれない周瑜は腹を立てた孫策に床に押さえつけられた。
「やるか、ケンカしたいのか?」
「おれがお前にそんなにうんざりさせたか?まじめな学生の振りはやめろよ、気持ち悪いだろ?」
孫策は周瑜をしっかりと地面に縫い付けた。だがあきらかに力が自分程なく、ケンカも勝ったことのないまじめな学生は慌てることも抗うこともしなかった。さらに軽く言われた「ケンカしたいのか」が火をつけた。
「わたしが気持ち悪い?みんながきみみたいに授業に出て眠りこけ放課後にはケンカ三昧の方が気持ち悪いじゃないか?」
心の中にモヤモヤとしていた人は押さえつけながら気持ち悪いと罵られ、側の人間からもいつも優しく笑っていると見られる周瑜も怒りに燃えた。
「ふん、人をみな騙して、男らしいと言えるのか?」
孫策は手で周瑜の首をつかみ、いつでも攻撃できる態勢をとった。
「人を見れば誰とでもケンカする、人間らしいといえるのが?」
孫策に上から見下ろされ、身体を押さえられながら、周瑜は自分が何を言おうが孫策が一撃も振り下ろすことはできないという自信があった。
「オレがお前を殴ったことがあるか」
「わたしがきみに嘘をついたことがあるかい?」
「おまえ!」
周瑜の首の上にある指は握りしめられることはなく、孫策は周瑜の襟をつかんで壁の隅に押しつけた。
「周瑜、もう一度聞く、おまえはおれにムカついているのか?」
「きみはどう思うのさ?」
薄目を開いてまっすぐと孫策を見つめ、周瑜は問いを返した。
「わかった!そんなにオレと一緒にここに三年も暮らしたのは苦労をかけたな」
周瑜の我関せずといった冷たい表情を見て、ひどく怒った孫策は思いきって手の力を緩めた。
「今日お前を母親のところに返そう!」
「わかったよ!」
孫策の追い出し命令を聞いて、周瑜はどこからかわからない力を込めて、右足を繰り出し孫策の腹を蹴飛ばした。
「この蹴りは、お前の借りだ。小さい頃わたしがきみに代わってきみのお父さんにビンタされたのを覚えているかい?」
「チャラになったか?」
痛む腹を押さえながら、孫策はまさか周瑜がこっそりこんな陰険な攻撃をするとは思わなかった。
「チャラになったなら帰れ、オレはお前がここにいるのを見たくない!」
「孫策……」
孫策がバンとドアを閉めた、彼の青春期の少年の痩せたシルエットをぼんやりと部屋の隅で周瑜は寂しそうに見ていた。
幼い頃から今まで、孫策と周瑜はケンカしたことがなかったわけじゃない。だがこのひどく不愉快な二年は二人で一度も周瑜の実家に帰ってにぎやかに過ごしたことはなかった。 孫策は友だちの家に遊びに行っていた。散らばった床の衣服を畳んで重ねた。
周瑜は自分が悪いとは感じた。「帰るんなら帰る、チャラになればいいさ!」