策瑜で三国志ブログ

一日一策瑜 再録しました。三国志、主に呉、孫策、周瑜について語ってます。基本妄想。小ネタを提供して策瑜創作してくれる人が増えたらいいな。

周崇さん、周忠さん。

臨時 一日一策瑜

周崇さん、周忠さん。

周瑜と同じ世代とも、一代上の世代ともいわれている同族です。

周崇は周景の長子で、甘陵相まで出世し、安陽郷侯の爵位を受け継ぎました。

甘陵は清河国の一部。後漢安帝の時に改名。安帝の父の陵墓を追尊して甘陵とし、陵邑に。
その後、桓帝の時代に甘陵国に改められる。
周崇さんが相になったのは桓帝の時代以後のことですね。

次、周景の次男、周忠。字は嘉謀。

おっ、字が判明。謀がついてます。
周忠さんが周瑜の上の世代だとすると、
ちびっ子孫権に「ねぇ仲謀!」とか言えなくなるのかな?
家系図はいろいろ説が分かれてますね。

若いときに官職に就き、官位を重ねて遷り大司農に至る。
初平三年(192)冬十二月、太尉の皇甫嵩が罷免され、光禄大夫の周忠が太尉となる。
尚書の事務も兼ねて取り扱った。
折よく李傕が太尉の周忠と尚書賈詡の策を容れ、
朱儁を召して入朝させた。

周忠さんは賈詡さんと親しいのかな?
朱儁さんは会稽上虞の人。同じ揚州つながりで関係がありそう。それは、孫家、孫堅朱儁が黄巾以来麾下で活躍させていることからわかります。
この時、朱儁のなかでは陶謙を盟主にする案があった模様。袁紹じゃなかったのね。
袁紹は身内を見捨てた疑惑あるから……。それと宦官に対する姿勢など過激派に思われたのかも?
 
初平四年六月、扶風で大風、雨雹、華山が崩れ、崩落する。太尉周忠は災害を理由に罷免され、太僕の朱儁が代わりに太尉となり、尚書の事務を兼ねた。
明くる年の秋、朱儁が日食を理由に罷免された。

日食や災害を理由に辞めさせられるのですね。
天人相関説、災異説とも言われています。
災害を通じて天が君主に警告しているという説です。漢代に影響が大きかったようです。
君主が責任をとるわけにはいかないので、大臣が代わりに辞めるのでしょう。
しかし、狙いをもって朱儁を入朝させ、太尉にしたのに、日食でやめさせられるとは…トホホ。

周忠はのちにまた、衛尉と再びなり、献帝の洛陽東帰に従う。

この東帰はかなりの決死行だったらしく、李傕が追ってきました。

この時、殿軍を務めた衛尉周忠さんと司徒趙温、太常王偉、司隷校尉栄邵はみな李傕が嫌っていた面々で、殺そうとしました。
賈詡が李傕に進言して、「この人達はみな天子の大臣です。あなたさまはどうしてこれを害そうとなさるのですか?」
李傕は殺すのを止めました。

賈詡さんすごいですね。
ドラマ「三国機密」のやり手お爺ちゃん軍師や、『火鳳燎原』の三奇みたいですね。

献帝東帰で周忠さんが登場する最後は建安元年で、周瑜は二十二歳、まさに居巣県長を命じられて行くところでした。

周瑜が北に行っていたら…周忠さんの後継者となりえていたでしょうか?うーん。

他に周忠さんが登場してくるのは士孫瑞がいかに評価されていて、各大臣がみな士孫瑞さんに位を譲ろうとした話に、周忠さんも入っていたエピソードくらいです。

周忠さんは賈詡さんと策を練るあたり、謀士なのかな?漢の忠臣であることは間違いないですね。体張ってる。
その周家の忠臣イメージを利用したのが周瑜です。
利用した分、魯粛みたいに「漢王朝はダメっすよ」とは言えませんでしたけどね…。

次回はラスト、周忠さんの子、周暉さんです。