策瑜で三国志ブログ

一日一策瑜 再録しました。三国志、主に呉、孫策、周瑜について語ってます。基本妄想。小ネタを提供して策瑜創作してくれる人が増えたらいいな。

周家の運命の分かれ道、周暉さん。

臨時 一日一策瑜

周家の運命の分かれ道、周暉さん。

えらく優秀な人だったようです。この人の生死が周家の、周瑜の運命の分かれ道となったと思います。

周忠の子、周暉はもとは洛陽令となりましたが、のちに官界を去って故郷に帰りました。その兄弟は賓客を好み、江淮の雄として名を知られていました。
出入りするのに従う車は常に百以上ありました。
霊帝崩御し、周暉は都の情勢が不安定と聞き、周忠の様子を見に行きました。
董卓は周暉のことを聞いて、これを憎み、兵を遣わしてその兄弟を殺し、強盗した。

霊帝が崩じた光熹元年、周瑜は十四歳でした。
一族のホープの死はどう受け止められたでしょうか?
また、兄弟とありますから、一族諸共に董卓に殺されたようです。
また、賓客を好み…この生き残りの分が周瑜の客となったかもしれません。

単に親の様子見に行ったのかもしれませんし、都に入って何らかの工作をしようとしていたのかは不明ですが、あまりにもいきなり劫殺(強盗、殺人)されるとは理不尽で、悲劇です。

董卓から見て殺さなければならないほど危険な存在だったのでしょうか?
史書には短い断片のみでわかりません。
想像するならば、周家と孫堅との繋がりが霊帝崩御以前にあり、それを警戒されたのかもしれません。

周暉さんが生きていたら…周瑜は戦場に出ていたでしょうか?
孫策と出逢ってしまったら、当然のように共に戦場に出ていくでしょう。
孫策と出逢わず、周暉さんが生き存えていたら、周瑜は乱世の琴の名人として名を残していたかもしれませんよ(大妄想!)

そのほかに、周瑜の叔父周尚と父周異が名を残していますが、それぞれ官位が丹陽太守、洛陽令と言うことしかわかりません。周尚にいたっては誰からの任官なのかも不明です。

華麗なる周家の面々。いかがでしたでしょうか?
それぞれ周瑜につながるDNAを感じませんか?
血そのものだけでなく家学といった環境も影響しているかもしれません。
代々蓄えてきた栄養分を吸い取って咲いたのが周瑜という大輪の華に思えてなりません。