策瑜で三国志ブログ

一日一策瑜 再録しました。三国志、主に呉、孫策、周瑜について語ってます。基本妄想。小ネタを提供して策瑜創作してくれる人が増えたらいいな。

周興さん。其の二。

臨時 一日一策瑜

周興さん。其の二。

前回は周興さんの華麗なる文章表現力が認められたお話でした。

彼の才能はそれだけでは無かったのです。
天文暦法の知識も豊富でした。

それも同僚は太史令も経験した張衡さん。
令和の元ネタの元ネタ帰田の賦でちょっと有名になった人です。この人は本当の天才で東洋のダヴィンチと言われています。
なかなか仕官の誘いに応じず、最後は天子の公車が迎えにきました。
文学、画才、地震計ほか機械設計も巧みでした。天文ももともと専門であったわけでなく大人になってから始めて、太史令にまでなってしまう……本物の天才です。

その張衡さんと周衡さんが尚書郎で同僚になっていたとき、論争が起こります。
(張衡さんのほうが年上の模様。相棒みたいだ、右京さんは張衡さんで、周衡さんは亀ちゃん??)

張衡さん周興さんがかかわった暦法に関する討論は、安帝の延光二年(123年)に起きました。
討論の始まりは、ある人は図讖と日食や災害等についての迷信から、当時使われていた東漢の「四分暦」を非難し、図讖に合わせて改めた「甲寅元暦」を提出しました。
また、ある人は武帝の異民族を討ち、国が久しく続くことへの願いをこめて昔の「太初暦」に戻るようにと考えました。

この議論の中には侍中の施延(朱然の先祖と思しき人物)の名前も見えます。三国志の登場人物の先祖同士が接近していたというのは、なんかワクワクしますね。

二人はこの二つの暦について批判し、誤りを指摘し、二つの暦の支持者を無言にさせたり、誤りを言わせたりして、暦法の後退を阻止することに貢献しました。
また、二人は長年の天文観測の記録から、各種暦法の理論を比較、演算して「九道法」がもっとも精密だとし、採用されるように建議しました。

すごいですね~とうとうオリジナル暦作っちゃいました!
ですが、この「九道法」は日の目を見ずに終わってしまいます。九道法自体は本当に精密で評価されているようです。
なぜ採用されなかったのか。

ややこしいから…みんな慣れない。
29日の月と30日の月の並びが交互ではなく不規則に連続するため、やりにくいように思われたようです。
これは月の運行速度が一定ではないことに気づいた結果そうなったので……正確さを追いかけた天才二人にはなんでもないことでも、他の議論していた高官とは意見が合わなかったようです。
専門の史官からは支持を得ていたようです。
あと、意見をとりまとめた尚書令の陳忠さんは、二人の意見は、「未知のことで問題があると(高官たちには)思われている。」と述べています。
結果、四分暦が継続されました。

進歩的過ぎて理解されなかったのかな?
科学的に理解する能力のある史官は認めてくれているのに。というか尚書郎なのになぜ太史官の職務で名を残しているのだろう?
それだけ二人がずば抜けていたから?

周興さんが後漢書で登場するのは以上です。
尚書郎になったあとのことは書かれていません。
帰郷したとか、亡くなったとか……

個人的な妄想ですが、この「九道法」で多くの高官を敵に回して官途を閉ざされたのかもしれません。
張衡さんも(本人が至って上昇志向がないため)官としては出世しないで終わっています。

天才だけど、立ち回りは今ひとつ苦手なタイプなのかもしれません。

さて、周瑜との繋がりとしては、数に明るいところでしょうか。
赤壁前、「江表伝」で曹操が八十万を称したのに対して冷静に数字を割り出しています。情報分析能力、そして、それを述べる表現力、両方とも周興さんからのDNAだったり家学だったりしたのかな?
周瑜はちゃっかり図讖の言葉も魯粛の説得に利用しています。信じているかは別として。

さて、周興さんの尚書郎止まり?を反省したのか、別のタイプのご先祖さまが登場します。
パリピです、周景さん。Yeah!

夏バテプラス後漢書が難しいので少しお休みします。
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