策瑜で三国志ブログ

一日一策瑜 再録しました。三国志、主に呉、孫策、周瑜について語ってます。基本妄想。小ネタを提供して策瑜創作してくれる人が増えたらいいな。

周瑜の親戚、周景さん。

臨時 一日一策瑜

周瑜の親戚、周景さん。

テキトーダイジェスト、スタート。長い。

周景、字は仲餐、大将軍梁冀の役所に招かれ出仕する。

仲ということは次男か。
梁冀といえば、幼い帝から跋扈将軍といわれ、有名な外戚一族としてその名の通り朝廷を跋扈しました。
周景さんも逆らうに逆らえず出仕したのかしらね?
秦宫という美男を妻の孫寿とともに寵愛したという記録もあるから…顔採用?(ううっ、まさかね)

ややもして豫州刺史に移り、河内太守となる。
賢く志あるものを好んで愛し、その才を抜擢、善いところを推薦し、常々人材発見に至らないところを恐れた。

父や祖父の代には抜擢される側でしたが、今度は抜擢する側にまわりました。しかし、豫州、河内と中央付近ですね。

毎年、推挙したものを奥に招き入れ、共に宴会をすることしばしば、それから都に送った。十分な贈り物をすることも多数。推挙した者の父兄や子弟にも優遇した。
常に称して言うには、「臣下を子のように扱う、これ以上の待遇があろうかな」

んーリッチなお話すぎて、ちょっと銅臭が…
羽振りがよすぎて「ヨッシャ、ヨッシャ」の総理大臣みたいですね。
当然批判も出てきます。

以前に司徒の韓演が河内にいたとき、私情はなく、推薦するにも、一言述べるのみで、その家に恩顧をあたえることもなかった。本人曰く、「わたしは推挙すればいいだけで、どうして一つの家のみかかわっていられようか」
こういったことから、当時の人はこの二人を比べて議論した。

どっちもねー極端ですね。
周景さんとしては、国のために賢才を送り込み、同時に自分の地位名声も確立させたかったのかもしれません。
また、周家が歴史が浅い家で南の方という地理的に不利な要素もあるかもしれませんね。田舎者と思われていたかも。
韓演さんは韓王信の子孫で潁川の出身ですから、ずうっと有利なんですよ。

豫州刺史になったときには、朝廷のために多くの人材を集めました。

中にはすごいメンバーがそろってます(地元の名声も聞き入れ、見る目はちゃんとあるってことですね)
汝南の陳蕃(三君)を別駕として招き(なかなか来なくて渋ったらしいけど、一応来て、ちょっと勤めて諫言がいれられず辞めた💧)ました。
潁川の李膺(八俊の一人、天下の模楷、登竜門の語源の人)、荀緄(荀彧のパパだよ、八龍の一人)、杜密(八俊の一人)、沛国の朱寓(八俊の一人)を従事とした。これらの人はみな天下の英俊の士で、後には等しく朝廷の重臣となりました。

みんな党箇の禁のオールスターです。
優秀すぎてやばい。
一応贈り物、パーリィ攻勢?が怖くて官に就くけれど、プライドが高いせいか、諫言しては辞めていくパターン。
何回かいろんな人に招かれては辞めを繰り返しながら出世していく。

周景はのちに尚書令になったとき、楊秉(弘農楊家です。楊彪の祖父、なぞなぞ楊修の曾祖父)をなんども招こうとしました。楊秉は病と称して出仕したがらなかったので、不敬な奴めと弾劾されてしまいますが、これを周景は庇っています。最終的には来て太常になっています。
また陳翔(八及の一人、劉表と同じクラス)を侍御史として招聘しました。

楊彪とはこのあたりからの縁があったのかな?
献帝の東帰の殿軍として楊彪と周忠は戦っています。

周景は中央に呼ばれて将作大匠(宮殿や宗廟等の造営を司る)となりました。
しかし、梁冀が誅殺されると、周景も故吏であることを理由に免官禁錮されてしまいます。

故吏って重要ですね。これが原因で出世するも没落するもありえるですね…。
しかし、こんなところで躓く周景さんではなかった!

朝廷は周景がもとより忠誠で公正であることから、これを許し、また尚書令に任命した。
太僕、衛尉に移る。

さすがですね。パリピは政変を乗り切りました。
ちゃんと忠誠を認められているんだな。
この時期、事件を解決して、名を上げていますが、そのやり方がワイルド。

延熹年間中(158年—167年)、都には順帝陵を盗掘し、市場で御物を売りさばいたヤクザがいた。市場の長は捕まえられなかった。
周景は詔を使い司隷校尉の左雄(順帝時138年に亡くなっている?ここ謎)を尚書台に呼んで責任を問い、左雄は伏して答えた。周景は虎賁の左駿に頭を打ちつけさせ、顔が血まみれになるまでやらせた。
周景は関係者に期限を三日与え、最後には盗賊を捕まえることができた。

やべぇー。周家ワイルド。文学的でインテリジェンスで血まみれワイルド。
のちに出てくる橋玄とシンパシーをちょっと感じるあたり法家なの??
というかやり口がどっちがヤクザ!?

延喜六年、劉寵(劉繇の伯父)に代わって司空となる。当時は多くの宦官が任命した自分達の一族の子弟を官位に就け、周景が太尉の楊秉と一緒に各種の邪でずる賢い人々について上奏した。将軍から州牧、太守以下免官にされるものが五十人余りいた。中常侍防東県の侯覧東武陽侯の具瑗らは皆罷免された。朝廷の上下で賞賛しない者はいなかった。

有力な宦官一味を罷免に追い込みました。
周景さん一人の功じゃなくて、いろんな人が勇気を出して告発しています。なかには反撃されて失敗しているものも。
党人の不満を抑えるためにも、ガス抜きで何人か始末されたのかな?

司空についた次の年(165)、周景は地震によって免官になります。延喜九年(166)九月光禄勳周景は罷免された陳蕃の代わりに再び太尉となります。
建寧元年(168)夏四月戊辰に太尉周景は薨じます。霊帝の策立にかかわったことにより、安陽郷侯が追封されました。

怒涛の生涯ですね。それでも畳の上?でお亡くなりになりました。
いろんな波乱がありました。外戚とも関わったし、党箇の禁の主要メンバーとは知り合いだし、宦官潰しもしているし、敵も多かったのではないでしょうか?
それでも、忠実で公正な人柄と人脈の広さでなんとか官界を生き抜いたのかな?

なお、周景さんのかっちょ悪い話が橋玄伝にありまして、橋玄さんと会ってその志をほめた後、梁冀の下っ端が悪さをしまして、橋玄さんにとっつかまりました。梁冀が「なんとか許してやってくれ」と忖度を求めてきました。故吏ですから周景さん断れません。橋玄さんに忖度を頼もうとするも、鋭敏な橋玄さん、先を読んでぶっ殺していました…。法家…。
故吏って大変ですね。

周瑜とは雅量高致で重なるかな…。党箇のメンバーより荒っぽい連中をまとめて率いていくわけですから。
失脚しないタフさと信頼性もありますね。
この時期の豫州の人脈がうまいこと周瑜の時代に繋がっていないかしら?

夏バテプラス後漢書訳すの荷が重い…。