策瑜で三国志ブログ

一日一策瑜 再録しました。三国志、主に呉、孫策、周瑜について語ってます。基本妄想。小ネタを提供して策瑜創作してくれる人が増えたらいいな。

(術策)「有花堪折直須折」by潜規則之路先生20

「盧江」

 陸議は長いこと楼上に立ち続けていた。眼はぼんやりとしてちかちかとしてきた。彼はよろめき、額を城壁の女墻(凸凹)の上に近づけた。きつい陽射しから少しでも守られるように、わずかな冷たさを求めた。
 痩せこけた手が彼の肩を抑えた。彼は振り向くと、陸康がそっと言った。
「そなたはここにいるべきではない。はやく家に戻りなさい」

 すでに陸康は老いており、ここ半年の間でさらに年老いた。
 彼は袁術の兵糧を貸して欲しいという求めを断り、すぐに将来を予想し、舒城で早々に準備した。城壁を築き兵糧を集め、自己防衛をし、また文書を発布して外援を求めた。
 外援は全く現れず、彼は恨み、怒り、城を守るだけだった。

 陸議は盧江に住むこと数年だったが、こんなに従祖父が急速にやつれていくのを見るのは初めてだった。官服は今まで通りきちんと整っているが、その背骨は痩せこけて曲がり、まるで恐るべき重圧をその身で受けとめているかのようだった。

 孫策は兵を率いて、火の如き速さで盧江郡のその他の地域を治め、舒城と外界の連携を切り取り、城を包囲した。

 彼は城を攻めること二回、功無くして戻った。それからは包囲して攻めず、毎日城の外の軍営地で太鼓を叩き演習をしていた。城の下に人を遣り、降るように叫ばせた。陸康はただ死守し、決して外に出て決戦しようとはしなかった。
 しかし、こうも守戦が長引くと、さらなる問題が出てきた。
 城内の兵糧、秣は十分に足りていたけれど、消耗ばかりで、収入はなかった。城の本部はいつかはもたなくなる。毎日挑発されても、出撃することはできず、士気もだんだん落ちてきた。
 同じく待っているのでも、孫策は待てるが、陸康はそうではなかった。
 彼は悪人の行いを軽視するが、ただこのときは、彼は非常手段を取らねばならなかった。

 彼の従孫は意地になって頭を振った。
「お祖父様がここにいらっしゃるのです、わたしもおります」
 陸康は苦笑いした。
「戻っていないのだろう。少し水でも飲んできなさい」
 陸議は反論した。
「ではお祖父様は?朝も早々に屋敷から城楼に上がり、今まで何も召し上がっていないのでは」

 舒城はもう十数日も雨が降っておらず、酷く暑く、暑気が重苦しく、城郭の中に漂っていた。城下にはもともと樹木や草むらがあったが、すでに伐採し尽くされていた。また軍隊に踏みつけられ、すっかり禿げた一辺の土地が残るばかりである。
 陸議は心配した。もしこのような状態が続けば、城が破れる前に、陸康が倒れてしまうのではないかと。

 陸康は城外を眺めた。
「まだ待っておるのだ。急ぎのことで、食事などしていられない」
 陸議は茫然とし。彼の目線を追った。遠い大軍営地に袁、孫の両方の大旗が立ち、旗竿に掛かって動いておらず、周りが常と異なって静かであった。

 今日は、投降を訴えるものもいなかった。
 陸康はため息をついた。
「もし事が成れば……」
 彼の話し声と応じるようにして、視界から敵の陣営の門が急に土埃を立て始めた。
 太鼓の音は空からの雷のようで、だんだん激しくなる。血のような鮮やかな影が軍営内から馬で飛びだし、単騎で城下までやって来た。

 話すのは一人だが、全部そうだとは限らない。
 彼がますます近づき、陸議は従祖父が自分の肩に置いた手がだんだん震えが酷くなっていくのを感じた。
 馬の後ろには綱で二人が括られていた。すでに死んでいると思われ、土埃の中を引きずられてきたが、血の跡は見られなかった。
 馬上の騎士は上を見上げた。陸議はただ思った。この暑さを、彼はどうして耐えられるのか。

 孫策は兜をかぶっておらず、身なりはきちんと整えていた。鎧は銀に光り、戦裙は鱗の如く、背中の大氅(マント)は目を奪う鮮やかさで、怒れる猛虎が刺繍されていた。
 彼が顔を上げたとき、陸議は彼の額に汗の珠が浮かんで輝くのを見た。眉目秀麗な顔に殺気と嘲りが混じっている。

 彼は城下でしゃべり始めた。城楼の上でも一字一句、はっきり聞こえた。
「陸太守、わたしはあなたを長老として尊敬しております。軍を率いているとはいえ、あなたに対しての礼儀は欠かしたことがありません。あなたの家の何名かの死士は、わたしがここにお返しします。全て死んでおります。でもおとがめ無きよう」
 陸康は歯を食いしばった。昨夜三名の刺客を放った。彼とて下策だとわかってやった。ただ死士達は彼の義のために、危険を冒すことを惜しまなかった。今日この時まで待って、孫策自らひとすじの希望すら、殆ど消えようとしているのを知らせに来た。
 
 孫策は馬の後ろの縄を断ち切り、城の上に向かって朗らかに言った。
「なお、もう一名は息があるが、送り返さないのを許して頂きたい。また今度城攻めするときに、大軍の祭旗となってもらう」

 陸康は驚きと怒りがない交ぜになり、ついに耐えられなくなった。
孫策、お前はまだ若いのに、なぜこうまで残酷になれるのだ?袁公路は漢室を尊ばず、帝の使いを勾留して、不忠をなしておる。お前が彼を頼るのは、先父の希望にも逆らうことだぞ、これは不孝である。一太守のために兵を起こして征伐する、これは無節操である。権力のために刀を挙げて代々の付き合ってきた相手に向かってくるのは、情義がない。不忠不孝、無節無義、お前の父上が地下で知ったなら、必ずやとても失望するだろう」

 孫策は笑い出した。空気中がまるで流れが変わったかのように、一陣の熱風が吹いた。
「陸太守は果たせるかなもっとも孝と義を重んじられる。我が父の生前の数多の友人と同じく、それぞれ言うことは善を説くが、孤児や寡婦は門外に拒むようだ。一人の名節を全うするために、城の数万の生命さえ賭ける事を惜しまない。まことに仁の厚いお方ですね」

 彼の表情はやや変わった。陸議には彼の視線が、骨まで凍らせるほど氷雪の如く冷たく、また肌を焼くほどに鉄を溶かすような熱さも感じた。
 それまでと同じく、このような人物はただ一人で、彼を恐れさせ、心に熱い血が湧き立った。

 黒く重い雲がついに天から垂れ込めてきた。城の旗がびゅうびゅうと音を立てた。
 孫策は拱手して一礼した。
「陸使君にはお元気で、わたしはまた後日教えを乞いに参ります」
 彼は馬首を巡らし、数歩いくと、背中から短い戟を抜き出し、馬上で振り向き一笑した。
 城の上の陸の字の大旗が、倒れてきた。

(術策)「有花堪折直須折」by潜規則之路先生19

「懐橘」

 あるものが殿上にやってきて、袁術の耳元に小声で何事か囁いた。すぐに大喜びして満面笑顔になった。
「戻ったのか?」
 報告した侍者が答えた。
「はい。すぐにいらっしゃいます」
 陸康はその顔色を見て取り、我が子と甥と一緒に立ち上がり、袁術に向かって暇を告げた。
 大人と同じ格好の、ゆったりとした袍で広袖を着た陸績が身を屈めた時、袖からころころとみかんが転がった。
 彼は年もまだ幼く、生まれつき眉目秀麗で、賢く端正である。袁術咎めようとする気もなく、ずっと大人っぽく振る舞っているのをちょっと揶揄おうとした。笑いながら言った。
「陸郎、陸郎よ、すでに我が家の来客となっておるのに、どうしてわたしのみかんをまた盗もうとするのだ?」

 陸績は彼に答えて、いくつかの転がったみかんどころではなく、側に居た陸議が拾おうとして、入り口まで走っていった。
 彼はしゃがむと、長い袖が大きく滑らかな青い煉瓦に擦れた。指先が滑ってかすかに冷たく感じた。

 一個、二個、彼の手はたちまち止まった。
 雲を登るような靴の両脚がだんだん近づいてきた。一歩一歩重い音がした。すぐ彼の目の前で停まった。
 背後では袁術の大きい笑い声が聞こえてきた。
「孫郎が戻ったか、来い、早く来い!」

 孫策は屈んでみかんを拾い、陸議の手に渡した。彼の肩にそっと触れ、彼をつれて前に進んだ。
 陸議は顔を起こして、火花の影で彼の顔を見つめた。少しずつはっきりと明るくなっていた。美しい額、烏の濡れ羽色の髪、つんと立った鼻梁、薄らとあるかなきかの微笑みを浮かべた唇。孫策は目は高みから見下ろしていた。陸議はすぐに振り返った。
 彼は自分がこの人をかつて見たことがあると思った。いつだったかは覚えていないが、その目は、彼を少し怯ませた。その鎧兜は冷え切った光を帯びていた。

 袁術は微笑んで手招いた。
「孫郎、陸季寧陸太守にご挨拶せよ。季寧兄、孫郎は孫文台の長男で、今は天子より懐義校尉に任じられておる。まことに虎の父に犬の子はないという」
 孫策は拱手して一礼した。
「我が家が盧江にいたとき、かつて陸太守をお訪ねしたことがあります。それで存じております」
 袁術は重ねて言った。
「そなたの父と陸家の付き合いはそこまでにとどまらない。文台兄が長沙太守だったとき、越境を恐れず、宜春県令に援軍に行った。あれは陸家の従子、いうなれば元から恩義がある」
 孫策は顔を上げたが、微笑み、却って答えなかった。

 陸康は面の皮を強ばらせていた。目の端は細かく痙攣していた。しばらくして言う。
「孫郎は長年会わぬうちに、もう立派な虎将だ。すこぶるお父上の生前の風格がある」
 孫策はハハと笑う。
「太守のおほめの言葉ありがとうございます。太守は長年お会いしていませんが、とても矍鑠としている」
 彼は頭を下げて、二人の幼児を見た。
「お宅の子ども達からは、きっと英才を輩出するでしょうね」
 袁術は口を挟んだ。
「そなたは知るまい、いまさっきわたしが陸郎にどうしてみかんを懐に入れたのか尋ねたが、彼は慌てず騒がず、わたしに答えた。持って帰り、母に贈るのだと。まったく孝道をよくわかっておる」
 袁術は大笑いして、陸康も笑った。ばつの悪さは免れず、決まり文句の挨拶をし、ふたたび袁術に別れを告げた。

 袁術孫策と軍営の入口まで送り、陸康一家が車に乗るのを見ると、戻った。
 袁術はほろ酔いで満心得意で自慢した。
「陸康のじじいは今まで強情で傲慢だったが、今回はわたしと語り合い、我らが徐州を攻めるときには、必ずや助けると」
 孫策は彼の側に寄ったが、笑ってしゃべらなかった。

 陸家の人馬は車輪を軋ませ寿春を出発した。夜は遅く暗く、陸績は侍従の懐の中で眠っていた。
 陸議は逆に眠れず、陸康のそばに近づいた。そっと呼んだ。
「おじい様」

 陸康は思い沈んだ。突然びっくりした。
「何事だ?」
 陸議面を伏せ、しばし考えて、やっと答えた。
「今日あの孫校尉は、わたしが思うに、会ったことがありますか?」

 陸康は言う。
「そなたが盧江に来たとき、孫家の親子はすでに北上し出発していた。お前がなぜ会ったことがあると?」
 陸議は首を振った。
「あの時ではありません。孫文台将軍が亡くなられたあと、あの方が陸家に来られました……」

 陸康はやや顔色を変えた。
「そなたは当時彼を見たのか?」
 陸議は言う。
「わたしは当日も平和な時と同様、出かけて先生のところへ伺いました。出入りするときに、孫校尉が前堂で待っておられるのを見ました。従祖父に会見を求めていると。どうして今日はまた会ったことがないと」

 陸康は重々しくため息をついた。
「そなたは休みなさい。気にすることはない」
 陸議はそれ以上言葉を重ねず、車の隅に横になった。
 彼は眠れず、声は出さず、眼は従祖父が帳をはね上げ、遥かに天の星座を望み、半ばため息、半ば独り言を呟くのをみつめていた。繰り返していた。
「福か?禍か?」

(術策)「有花堪折直須折」by潜規則之路先生18

「奪節」

*馬日磾の権威の印であった節(飾り房の着いた杖)を袁術が奪い、勝手に官職を決め始めた。

 孫策は部屋の中で一人静かに座り、精神修養をしていた。
 目の前には碁盤が置かれ、ほんのわずかな黒と白の石があり、その他は手許にあった。

 時刻はもう早くもなく、周瑜勿論戻るし、留めておけない。
 窓の外には両対の梨の木があり、花が白く繁り咲いていた。盛りの枝が一、二枝部屋まで伸びてくるようだった。
 日は傾き碁盤の上の花影も緩慢に伸びていた。
 ゆっくり、遅いのは人には我慢できない。

 空の迅雷がかまびすしい混乱を引き起こしていた。さらに予測しがたく。さらに辛抱できない。
 周瑜はすでに彼に雷の到来を予想していた。しかも周瑜の性格は緻密で慎重であり、把握するに足りないことがあれば、嘘はつかない。
 周瑜が帰る前に、彼らはまた別のことを話していた。

 以前、孫策が正式に袁術を頼ると表示するとき、袁術はかつて彼を九江太守の地位につけようとしたが、その後本当に着任したのは丹楊の陳紀であった。
「予想の内、でしょう?」
 周瑜の指は細長く、関節ははっきりとしていて、孫策の髪を結うのに口に櫛を銜えていて、もごもごと尋ねた。
「九江太守のような位置では、もしオレに回ってきたとしても、かえってとても面倒だ」
 九江郡は寿春を治所とし、孫策がもし九江太守になったなら、一には若くして功無く、全面的に袁術の恩寵によるものとなり、必ず他人の妬みを買うことになる。二には、袁術の身辺に引き留められ、羽ばたく余地が無い。

 周瑜は滞りなく孫策の身支度を整えた。身体を傾け、耳元で囁く。
「もし盧江だったら、とってもいいのにね」
 孫策は振り返らず、二人は鏡越しに微笑みあった。
「盧江、そうだな確かに上物だ」

 誰かが戸を叩いた。二人とも離れると、兪河が入ってきて報告した。
「太傅はすでに左将軍府に連れて行かれました」
 孫策は頷き、周瑜が言った。
「わたしは帰ります」
 孫策が言う。
「気をつけろよ」
 周瑜が戸口まで行って振り返て彼を見つめた。
「この話は、わたしがきみに言ったことこそ正しいよ」
 孫策は笑みの中にもふざけていて自嘲した。
「心を動かし性を忍び、其の能くせざる所を増益せしむる所以なり」(『孟子』)

 天がまさに大任を斯の人に降さんとするや、まず彼に数多の忍耐と偽装を強いる。

 空の色はすでに暗く、彼の待っている人物はやって来た。

 先触れの使者は意味深長な笑みを浮かべていた。
「左将軍のお言いつけです。今日は家宴でございます」

 家宴、孫策に鎧兜や、武将の出で立ちは不要ということである。
 衣装も袁術が人を遣わして送ってきた。新竹の葉のような青、上質の絹は艶も水の如く、また柔らかさも春風のようである。
 袁術の手の中のあの節杖の色と十分似ていた。

 広間の外では完全武装した兵士達が立ち並んでいた。広間の中では、袁術が主座に一人座り、数名の女達が侍妾の格好をして側に控えて、渠のためにうちわで扇いだり、酒を注いだりしていた。
 その中に大胆かつ静かに周りを伺いながらちかづいてくる少年がいた。
 惜しいことに彼は微笑みを浮かべていたが、却って彼女らには一目もくれず、女達の秋波は無駄に終わった。
 彼もお辞儀もせず、ご機嫌伺いの一言も無く、袁術の座る机のところまで直接進んだ。美しい両眼を丸く見開いて。

 袁術も怒らなかった。却って侍妾たちに指示した。
「孫校尉に酒を注げ」
 女達の一人が羞じらいながら返事をして酒器を孫策の面前に捧げ持った。彼は杯を受け取り、まず問うた。
「太傅は無事ですか?」
 袁術は手の中の節杖を撫で回し、少々不機嫌さを見せた。
「太傅?太傅は少々病気でな、わしは医者を呼んで太傅を屋敷に迎え入れた。彼には寿春にしばらく滞在してもらい、安静にして養生させよう」
 孫策は杯を口にした。袁術が語る。
「数日もしたら、朝廷には上奏しよう。わしが太傅に代わって、執り行おう。そなたに懐義校尉の称号を与えると」

 孫策は微笑んだ。
「ありがとうございます。袁叔」
 袁術は彼を見つめて、ため息をついた。手を振り侍妾たちを後ろに下がらせた。
「そなたとそなたの父上は、その実あまり似ておらぬな」
 孫策は黙って、俯いた。自分と袁術に酒を注ぐ。
 袁術は言う。
「そなたはそなたの父上より、時勢をよくわかっておる」

 孫策はあざ笑った。
「袁叔はご存知ないかもしれません」
 袁術を見て眉根を寄せた。
「わが父がわたしと同じく時勢を知っていたならば、袁叔は今ごろ董卓陣営のなかにわたしを探していたはずです」
 彼は机に肘をついた。身体はやや後ろに仰のき、下顎の線がなめらかで美しかった。もみあげの髪が少し解けて、幾筋か頬を流れた。
 袁術は手を伸ばして孫策の耳の後ろへ整えた。
「そなたの身辺に仕えるものは丁寧ではないな。髪の結い方もなっておらぬ」
 孫策はびっくりしたあと、却って笑えてきた。机に伏して、肩をふるわせ、ひとしきり笑うと身を起こした。
「袁叔心配をかけました。これからは気をつけます」

 袁術は言う。
「そなたの身辺には、面倒を見るものが必要だ。そなたはすでに十八、娶りたいとは思わぬか?」
 彼は後ろにいた女子を指差した。
「そなたが見て、もし気に入ったものがあれば、わしは即刻贈るとしよう」
 女達は抑えきれずさざめきあった。あるものはすぐに顔を伏せ、あるものは顔を上げ、目線がぎらぎらと向かってきた。
 孫策は表情を硬くした。
「袁叔はご存知のはず、わたしはまだ父の喪中なのです。また新参者で功もありません。妾を持つなど、今さら急ぐことではありません」

 それは明確な拒絶であった。袁術は却って手を打って笑った。
「良く言った、良くぞ申した」
 彼は酒を飲み干して、二回手を打った。すぐに近侍が急いでやって来た。袁術が言う。
「婧児を連れてきなさい」

 袁婧は年は十一、二歳で、小さな体で、侍女に手を引かれて来た。薄紅色の上着に五色の飾り房をつけて、刺繍した香袋を下げ、裾をさらさらと衣擦れさせながら階段の前までやって来た、歩くのはゆっくりとしていて注意深い。
 彼女の髪は長く豊かで、明らかに子どもなのに重々しい髷に結っていた。頭の上には金色の玳瑁の櫛があり華やかなことこの上ない。彼女が伏してお辞儀をする際、孫策は思った。こんな幼く小さな身体には栄華の外側が重すぎると。

 袁術は手招いた。
「婧児おいで」
 袁婧はもとは庶出の娘で、生母の楊氏はこの子ひとりを産んだだけで、十分に寵愛を受けている訳ではなかった。いつもは父に会えるのはごくわずかだった。今夜袁術に突然これらの言いつけを受けて、母は驚き、娘は却ってぼんやりとしてどうしたらいいのかわからなかった。
 彼女の顔には厚く白粉と臙脂が施されていて、眉は太く濃く書かれ、唇には太く紅が塗られていた。元々は生まれつきうつくしい。恐れと驚きは覆い隠すことはできなかった。
 袁術は娘を面前まで歩かせ自分の前に座らせ、孫策に会わせた。
「策児、我が子にはなれなくとも、我が婿になるのはどうだ?」

 孫策は静かな声で答えた。
「袁叔は揶揄わないでください」
 袁術は言う。
「どうして揶揄いになる?そなたが父の服喪を守るというなら、喪が明けてから、婧児も成人になっておろう。よいことではないか?まさかわたしの娘では、孫氏の子弟に釣り合わぬとでも?」
 孫策はちらと袁婧を見た、彼女の肩が硬く強ばっているのが、驚いた雛鳥のようだった。
「袁叔はよその子どもを困らせるのがお好きだ。どうして自分の娘まで困らせるのですか」

 袁術の顔色が曇った。
「袁家の娘がどうして困るというのだ」
 彼は立ち上がった。袁婧はすぐにその場に拝み伏した。耳の真珠が細かに揺れる。頭も上げられなかった。

 孫策は顔を仰のいて彼を見つめた。恐れの色はなかった。
 袁術は高みから見下ろして、彼の下顎をこねた。
「まぁよい。我が娘を娶らぬというのなら、わたしも無理にとは言わぬ。ただそなたには改めて誓ってもらうぞ。我が袁氏に忠実に仕え、永久に逆らわぬと」
 孫策は深く黒い眼の瞳には袁術の後ろの灯火を映していた。
「袁叔はわたしにどうしても誓いが欲しいのですか」
 
 袁術は彼を見つめた。突然当時咲き誇った杏の花が思い起こされた。
 熱烈で、鮮やかで、早春に早々と咲いた。
 散り落ちる時は雨の中の血の珠のようだった。

 袁術は身体を傾け、小声で囁いた。
「そなたは誓うのだ。以後もし袁氏に背けば、必ずや鋭い矢がその顔を貫き、どんな薬でも救えず、流血して死すとな」

(術策)「有花堪折直須折」by潜規則之路先生17

「秘議」

 孫策は枕の上に伏せていた。寝台の側で水の音がした。誰かが絹布をお湯で絞り、肩から腰まで彼の背をゆっくりと拭いていた。一通り拭くと、またきれいな乾いた布で水分を拭き取っていた。
 その手には薄いタコがあり、彼の背を揉んでいった。やり方はよくわかっていて、優しい。

 覆い被さってきたのは下着ではなく人肌の暖かさと、隠しようのない柔らかさと慈しみだった。
 彼は顔を傾け、かすかに手を起こして、人を引きつけるたおやかなものを受け容れた。
 舌先が彼の傷跡を舐め、彼はチッと言うと、後ずさった。

 細長い指が彼の髪に潜り込む。彼の頭にかかる帯に触れた。
 その人は耳元で囁いた。
「きみは他の人に対して、こうも積極的なのか?用心しないの?」
 孫策はせせら笑った。
「おまえだってわかっているからさ」

 周瑜は心細やかで、まず帳を降ろして、それから孫策の目の上の束縛を解いた。
 このようにすれば、孫策も少しの時間が必要だが、突然戻ってきた光に適応することができる。
 孫策は半ば目を閉じていて、睫毛には薄らと涙がにじんできた。そこで周瑜の太ももに甘えて、彼の腰を抱き、彼の身体の側に顔を埋めた。ぼそぼそと言った。
「お前はなんで来たんだよ?」

 周瑜は腰をかき寄せる手を摩りながら、その腕に残る青紫色の印を薄暗い中で怪しい蛇のように思った。
 彼は問い返した。
「どうしてわたしだとわかったの?」

 孫策は身をどけて、枕の上に戻った。彼の方を見ながら、眼には薄らと光りが滲んでいた。
「おまえの香りがした」
 周瑜は彼の側に座った。逆光の中で少し眉目が動いたのがわかった。孫策も彼が笑ったのに気づいた。
 さらに重ねて聞いた。
「どうして突然来たんだ?」
 
 周瑜は身を傾けると、耳元で一言囁いた。
 孫策はがばりと起きて座った。
「ほんとうか!」

 周瑜はかすかにつり上がった鳳眼を細めて言った。
「もちろん。こんな大事なこと。わたしがどうしてでたらめを言うの」
 孫策は問う。
「おまえはどうやって知ったんだ?」

 周瑜の唇はとても薄く、閉じるととてもまじめに見えた。つり上げて微笑むと却って明らかに艶めかしい。
「彼は早朝に屋敷に戻ると、すぐにわたしの叔父を召して相談した。叔父は風邪がまだ治っていないから、当然わたしが側で付き添った。袁家と周家は代々付き合いがある。彼はわたしがいても気にしないよ」

 孫策はしばし黙った。
「彼はイカレている」
「彼は馬鹿げてる。わたしたちには却ってなんの悪いところもない」
 孫策は首を振った。
「その実、オレだってもともと馬翁叔について行けるわけもない。でも袁術がこうも大胆に妄動するとは、予想外だったな」
 
 彼は起き上がり、足下に落ちていた中衣を拾って着た。周瑜の手が伸びてきて、彼の襟元を整えた。
「馬日磾は太傅の名目があり、節を持っているけれど、今の朝廷は李傕、郭汜ののさばるところで、天子は幼く、その位は危うく、多少名分が正しくなかろうと、道理がなかろうともどれほどのことか。馬家と馬翁叔は離れて久しく、また西涼は遠い。彼の事情があろうと、袁家に不快な顔をさせることもないだろう。袁術のこのたびの行いは馬鹿げていて大胆不敵で、名声を傷つけるものだ。どれほどの危険があるかもわからない。長い目で見ても、十分馬鹿だ」

 孫策は冷笑した。
「オレはここのところ彼の麾下となっているが、彼の少しの智謀も見たことがない。袁氏の偉業のお陰がなかったら、あの兄弟がここまでのさばることはなかったぞ」
 周瑜は親指で彼の下唇の傷を軽く触れた。
「彼はきみに対して、本気みたいだね」
 彼の指は孫策の目の縁にそっと触れた。そこには一瞬血のように紅い殺気が掠めた。

 帳の中はしばし静かで、ひっそりと熱を持ち、形のない蛇が音もなくかすかに薫る空気の中を流れているようだった。
 周瑜孫策の髪を撫でて、彼の頭を自分の肩に寄せた。
「自分を苦しめすぎなんだよ」
 周瑜孫策は初めて知り合った時には背丈も似たようなもので、孫策は生まれつき力強く、武芸も一流で、常々周瑜を揶揄った。今や数年経ち、周瑜の方が背が高く肩幅もやや広い。彼の墨色の上着には金銀の刺繍がしてあり模様は吉祥雲紋で緩やかに巻いていた。
 孫策は彼の肩に寄りかかり、小声で話した。
「おまえはおれも馬鹿だと思うか?」

 周瑜はゆるゆると身体を横たえた。孫策も一緒に寝台にまた伏せた。
「きみは薬のつけようがないほどの馬鹿だよ。でもわたしがずっと側にいるよ」
 孫策は顔を近づけて彼の唇に口づけた。
「おまえは面白くないのか?」
 周瑜孫策の肩を押さえた。
「わたしは面白くないんじゃない。わたしはただ……犠牲が大きすぎると思うんだ」
 彼らは近くにいて、見つめ合った、孫策の目は明るく冷静だった。
「犠牲は必要だ。亡くなった父上のためにも、オレしか頼るもののない弟妹達のためにも、孫氏の将兵のみんなのためにも、そしてオレたちのためにも」

 周瑜は黙り込んだ。
 犠牲はもとより要る。しかし、どうしてさらなる我慢を強いられるものではなく、婉曲的な手段を選び、妥当な方法がなかったものか。
 だが、かれは言葉にはしなかった。孫策が決定したことには、彼は絶対反対しないし、彼ができる最大限でこの馬鹿が成功できるように助けるのだ。

 彼の心の声が聞こえたかのように、孫策の息がふたたび近づいた。湿った睫毛が彼の頬をくすぐる。
「怒るなよ。オレには他に方法がなかった。オレは手間取らない。ずっと待っていたくはない。オレは必ずもっとも直線的で、もっとも鋭利で、もっとも素早い速度でオレの目的を達成する。一旦完成したら、オレは振り向きもせずに離れる。その時には、おまえもオレと行くんだ」

 周瑜は反対もせず、返事もしなかった。
 孫策の声音は優しい。けれども周瑜は知っていた、彼のこういういつも通りではない静かな時は、嘘であると。
「しかし、今はもし必要なら、自分を犠牲にする、それがもっとも容易で穏当な方法なんだ」

(術策)「有花堪折直須折」by潜規則之路先生16

「主権」

 孫策は寝台に凭れて座り、白綸子の中衣ははだけて、胸元が起伏する様が見えた。
 彼の手はしっかりと帳を握り締め、手には青筋が立っていた。
 袁術は寝台の足側に座り、その時を待ち、愛でていた。

 彼の目線は孫策のこめかみのしたたる汗を見つめた。どのようにしみ出して、目の上を覆う濃い色の絹の帯にゆっくりと吸収されていき、しばらくして、彼の頬を滑り落ちて顎まで届き、上下に動く喉元にそって流れ、赤みのさした皮膚をゆっくりと進み、腰際まで届いた。

 孫策の身体はすでに成長しており、子ども時代の丸みは痩せて強靱な筋肉にとってかわっていた。かれの腰は美しい女達より力強く、脚もずっとすらりとして長かった。
 袁術はその旨みを味わった事があるが、しかし、そのたびごとに違っているものを欲した。
 孫策の呼吸はすでに荒く忙しないものに変わっていた。
 あの薬の中には麻勃が入っており、興奮し、また幻覚を見せる。袁術は多くのものにその薬を使ってきて、白い羊のようにすらりとして柔らかな四肢が歓楽中の夢幻のなかで震えながらしがみついてくるのが、とても美しい媚態と感じていた。
 孫策はここまで焦らされて、すでに驚くほどである。

 彼の身体はすでに弓なりになり、顎が反り返り、熱を持った紅い頬が寝台の滑らかな生地に擦れた。しかしわずかな冷たさでは、慰めの足しにもならない。
 黒色の絹帯は彼の紅い唇をさらに際立たせてみせた。歯は白く、部屋の中のほの暗い灯明が彼の首の汗で湿った皮膚を金色に輝かせていた。彼の荒い息はすでにもがきに近く、それでも頑強に声を出そうとはしなかった。下唇は噛んで歯の跡がついている。

 袁術は事の前によくよく計算していた。彼が自身を失うその瞬間に、やっと真の望む状態が得られると。
 幼虎を自分の手で躾けて望むがままに身体を開き、迎え入れて激しく雲雨を尽くすのだ。
 ひょっとすると、孫策は長くはもたないかもしれない。しかし、計算違いで、己の嫉妬の情も抑えていられないかもしれない。
 ここ数年間、美しく若い獲物は彼の手で狩られ、彼の飼育するところとなり、彼ひとりに属していた。
 もし、誰かが彼の側から彼を連れ出そうとしたら、どうする?どうする?

 彼は指先でちょいちょいと孫策のくるぶしの金の鈴を弄った。満足げに薬の効いたのと、弄ばれる両方の作用で抑えきれない痙攣と震えを起こしているのを眺めていた。
「言ってみよ。さきほど馬翁叔にこの音を聴かせたのか?」
 孫策はゆるゆると顔を向けた、唇には血の珠が滲み出ていた。
「あるいは聞こえていても、知らないふりをしたかな?」
 袁術は手を伸ばして人差し指でゆっくりと彼の唇の輪郭をなぞった。血の珠を拭うように。
「もしそなたが彼と一緒に長安に行くのなら、この鈴も持っていって、呉の地の女子に倣って、旧都の公卿貴族の前で一曲踊ってみよ。出世する近道かもしれんぞ」

 彼は近づいて、孫策の髪を少しずつ自分の手指に絡ませ、放した。彼の肩を抱き、滑らかな下顎から首へと口づけた。そして胸から腰際へと愛撫は続いた。口の中で何かを呟きながら。
「ああいったものは、そなたよりよくわかっておる。かれらとわたしは同類だ。わたしのよりほんの少しもったいぶっておるだけだ」
「そなたは彼らがそなたの才能を重く見ると思うか?それとも、そなたの父上の名声を尊敬していると思うか?忘れるなよ。現在の長安は、そなたの父上の敵の手中にある」
「馬日磾がそなたに何を与えられる?それとも天子が何を与えられるというのだ?」



 薬が効いてすでに絶頂に達していたが、袁術はたゆみなく続く締めつけを感じていた。もうすぐしたら爆発して墜落するだろう。
 彼は喘いで、さらにもう一度自分が主だと証明したかった。
「言え。そなたは長安に行かないと」
 孫策の声音ははっきりとは聞こえなかった。
「あなたはわかっている。明らかにわかっている……」

 その話はそれで終わらなかった。
 もし、目隠しをしていなかったら目の前には無限の光彩が爆ぜて広がり、金星が舞い飛び、それから身体にたまっていた熱が潮が引くように褪せてきて、疲れて指先ひとつ動かすことができなかった。

 袁術の精力も疲れ果て、腕の中の身体がずっと柔らかいままなのを見てとり、くたりとなった。ただ脚は依然として細かな痙攣をし、金の鈴がかすかな香の満ちる部屋の帳のなかで、さざ波のような音を立てていた。

(術策)「有花堪折直須折」by潜規則之路先生15

「夜談」

 馬日磾は普通の儒学者ではない。
彼のような出身、そのような経歴、今いる立場、当然普通のものではない。
 普通ではないゆえに、彼は煩瑣な儀式礼節にこだわらなかった。
 使用人が言う。
「孫郎はもう休みました」
 馬太傅は答える。
「知らせに行け。来たのはわたしだと」
 使用人は一度行って戻ると言った。
「孫郎は身繕いが整わず、太傅には不敬にあたり、明日自ら伺いますと」
 馬太傅はよしとせず言った。
「わたしが用があるのだ。格好などどうでもよい」
 使用人はもう一度行って来て、言った。
「孫郎はまだ寝室におります。太傅様には広間でややお待ちください」
 馬日磾はさっさと中へと歩き出した。
「必要ない。このことは重大である。寝室の方が秘密には却って向いている」 
 側に居たものも、道を遮ることもできず、ずっと側で喚いた。
「太傅、太傅……」

 その一方で 、袁術孫策の目の上の束縛を解いていた。
「わたしは今は出られない。そなたは帳を広げて隠しなさい。彼の言うことをちょっと聞いてみて、早急に帰すのが良かろう」

 孫策は身を起こして、鏡の前で、自分の髪を乱雑に櫛を通し、束ねた。
 袁術は袖からとても小さな玉製の瓶を取り出した。一つの暗紅色の粒を取り出し手の中で転がした。
 孫策上着を着ようとしていると、引っ張られた。薬の粒の甘辛い匂いが、唇に近づけられる。
 彼は頭を上げて袁術を見た。目の中には疑問と抗議の色があった。

 袁術は一笑した。
「そなたが飲まないというのなら、わたしはこうやってここに座り、馬翁叔が入ってくるのを待とう、必ずや見物になろう」
 孫策は仕方なく、彼の指から丸薬を舌に乗せ、含んで速やかに溶かした。呼吸すると濃厚な香りが漂う。
 袁術は彼の手を軽く叩き、寝台の帳を広げて、固く遮らせた。

 馬太傅が踏み込んで来ると、手の中の錦織の包みを広げて、青玉のような色の竹竿を持った。頭には赤と黄色の二色のヤクの毛と鳥の羽毛で飾りがなされていた。朗らかな声で述べた。
「故破虜将軍の子孫策よ聞け」
 孫策は年若く見たことはなくても、なにかはわかった。ただ一瞬意外に思ったあとに、すぐにその場に伏した。
 馬日磾は息をつき、前に進んで、彼を助け起こした。

 身を動かすと小さな鈴がなって、孫策は顔に薄らと汗をかいた。顔の紅みも目立った。
 馬日磾と彼は机を挟んで座った。口を開く。
「わたしはそなたの父上とは会わずに終わったが、その勇名はかねがね知っていた」
 彼は俯いて少し考えた。
「あの日そなたの父上が兵を率いて洛陽に進んだとき、惜しいことに董卓は天子様を巻き込み、西の方長安へと奔った。そして公卿百官も同行させられた」
 孫策は襟を正して正座して、手を膝に置いていた。ぎゅっと服をつかんでいた。
「太傅は深夜にここまでおいでになり、いったいどうしたことですか?」

 馬日磾は黙り込み、手指は節の上を撫でていた。深慮の上、口を開く。
「数日後、わたしは寿春を離れなければならぬ。東行を続ける。そなたはわたしについて来られぬか?」
 孫策はびっくりして、顔はさらに鮮やかな色に染まった。

 馬日磾は眉をしかめた。
「そなた病か?」
 孫策は首を振った。
 馬日磾はため息をついた。
「わたしが先にした話は嘘ではない。わたしはすでに文書にしたためて、朝廷に使者を送った。上表してそなたを懐義校尉となすとな。形とはいえ、わたしはすでに節を持っているから、これはもちろん問題ない」

 孫策は膝の上を固く握り締めていた。こめかみからは汗の珠がにじみ出ていた。

 馬日磾は続けて言った。
「そなたは破虜将軍の子。そして虎威もある。袁術の麾下に留まれば、せっかくの大材をつまらぬことに使うことになろう。惜しいかな。そなたが許すなら、わたしに付き従い天下を安撫し、長安へと帰り、漢室を尊び奉る。それがお父上の当時の願いでもあろう」
 
 孫策は躊躇う様子を見せた。
「その、左将軍のほうは……」
 馬日磾は気にせず言った。
「それは安心せよ。袁公路のことは、勿論わたしが話をつけよう。袁家と我が家は長年付き合いがある。校尉一人でわたしの面子に逆らうこともなかろう。いわんやわたしは節を持って行動している。そなたへの官位は朝廷が賜ったものである。彼がどうして阻めよう」 

 孫策は黙っていた。室内には暖かさと、濃厚な香りが漂う。彼の息は重苦しく乱れていた。
 孫策の足はすでに痺れていて、身体は硬直し、時々ちょっとの動作もできなくなっていることに気づいた。
 馬日磾は彼の肩を慰めるように叩いた。
「袁公路の性格は自惚れていて、眼中に人なく、疑り深い。そなたが彼の麾下におさまれば、おそらくは浅瀬での蛟の如く、志を得られないだろう。いつかの日、他の所へいくべきだろう。このたびわたしと一緒に離れれば、名分も正しく道理も通るだろう」

 孫策の手の中は汗で湿っていた。ついにはそれ以上話せなくなってしまった。馬日磾に向かって伏して一礼した。
「太傅のご指導に従います」  
 馬日磾は立ち上がった。
「よし、それではそなたは安心するが良い、数日は大人しく安静にして準備しなさい。上表が戻ってから、わたしは袁術に告げて、すぐに出発だ」 
 彼は戸口のところで、振り返って孫策に言った。
「見送りしなくても良い。わたしは夜に乗じて来たのだから。人を騒がせたくはない。夜も深い。そなたはやや病気のようだ。早く休め」

 門扉が閉じると、孫策はその場に立ち上がった。背後で寝台と衣服の衣擦れがささやかに聞こえた。
 袁術は彼の後ろに歩み寄り、上着を脱がせ、目を覆い、縛った。小声で囁く。
「浅瀬の蛟が西の長安に帰る。そなたは本当にこの太傅の指導にしたがうつもりかね?」

(術策)「有花堪折直須折」by潜規則之路先生14

「金鈴」

 翟とは雉のことである。
 袁術の衣の上には鮮やかな雉の尾の紋様が刺繍されており、ほの暗い灯火の下でもきらきらと光っていた。

 袁家は四世三公といえど、彼は一地方に割拠していても、ずっと人からは家族の恩恵でと見られることが多かった。今回の封侯、封将は内心喜びを抑えることができない。自然と言葉になり、貪欲さも次第に膨らんだ。
 将来天下のものは、必ずやたやすく手に入るだろう。袁公路の人生はまさに得意満面、どんなことも不可能ではない。

 彼の話はもう理解していたが、孫策は彼の袖をつかんだ。眉のあたりがいささか気怠げだった。
「袁叔、わたしは戻ったばかりです。今日はまた事件が多かったし、とても疲れました」
 袁術は落ち込んだ顔をした。
「そなたは客を追い返せるのか?」
 孫策は俯いた。
「そんなことはしません」
 袁術は彼の顎に触れながら、顔を上げさせた。
「そんなことはしない?そなたはまだそんなことを言っているのか?もしわたしがそなたを寵愛していなければ、どうして我が面前で殺人に及んで血を見せることなど許そうか?」
 孫策は彼と眼を合わせ、目の中の灯火が揺れていた。
「袁叔がそう可愛がってくださるなら、どうしてこうなりますか。袁叔は今や東南を有し、名声は四方に届き、天下の美女美童が数え切れないほどいる上、誰もが喜び受け容れます」

 袁術は沈黙し、片手で腰を抱き、片手で孫策の両眼を塞いだ。ゆっくりと寝台の上にのせる。
 孫策は目の前が暗くなっても反抗せず、しゃべるのもやめなかった。
「だから、袁叔の今日の宮殿でのあの話は、まったく真心からの話ではなかったんだ」
 袁術は手を放した。孫策の話を途中で止めた。
「もしわたしがあなたの子どもであったなら……」
 何重もの滑らかな布が彼の目を覆った。この時やっと真っ暗になった。彼の思うところ、言うところと、外界を遮断した。

 袁術は腰帯の刺繍の粗さが気になり、特に気を遣って内側の絹の部分を中へ折り孫策の目を覆った。彼の表情にわずかに怯えを見て取り、心中いささか得意になった。
 情事の手段で、困ることはない。
 彼は俯いて孫策の耳元で囁いた。
「そなたがもし許しを請うなら、わたしを父上と呼んでごらん。さすれば、わたしはすぐに離してやらないでもない」
 
 袁術は手を襟元から探り入れ、少年の胸元の滑らかな皮膚を撫で回した。彼の呼吸する胸の起伏がすぐに急になったと感じた。手の下の心臓は跳ねるように速くなり、袁術自身の骨まで叩くように脈打ち痺れた。情熱は抑えられない。
 孫策は必ずや叫ぶこともできない。これも彼の意図のうちである。
 万が一にも、万が一にも、孫策が叫んだとしたらと袁術は微笑んで想った。もし彼をもう少し屈服させたなら、今後彼の障害となるものは何もない。

 孫策は目が見えず、ただ袁術の手が滑り降りていくのを感じた。そして彼の傷のついたあのくるぶしに触れた。
 少し冷えてつるつるとした彼の肌に触れて、くるぶしにまといつき、思わず彼を縮み上がらせた。
「これはなに?」
 彼はかすかに動くと、チリンと鈴の音がした。静かな部屋で十分軽やかな音色を響かせた。
 袁術の声色は暗くかすれていた。
「策児、もっと動け、たくさん聴かせて……試してごらん……」

 孫策は驚き、怒り、思わず身体が震えた。
 袁術は腕を伸ばして彼の肩を抱き、幼子をあやすようにトントンと軽く叩いた。
「あちらの呉の地の女子は、そなたを思い起こさせたが、どこもそなたに敵わなかった……そなたが去ったこれまでの日々、そなたは袁叔の心を焦らせたのだ。当然戻って来て欲しかった……」
 鈴の音の激しさが彼の体内の鮮血を滾らせた。あちこちにぶつかり、速やかに突破口を探すかのように。
 その時、突然誰かが戸を叩いた。あたかも頭から雪水をかぶったかのように目が覚めた。

 戸を叩く音は激しく急で、袁術は大いに怒って罵った。
「何者だ?なにかあったのか?」
 外のものの声の調子は様子がおかしかった。大声で話したいところを、声を抑えていた。
「主公、誰かが訪ねてきて、孫郎に面会を求めております」
 孫策は彼の手の下で少しもがいた。座ろうとして、却って袁術に肩と背を押さえつけられた。また袁術は外に向かって叫んだ。
「こんな深夜に、どこの常識知らずが、訪ねてきたのか。誰だとしても、孫郎はもう眠ったと言って追い返せ」

 外のものは一瞬沈黙して、答えた。
「主公、この方は……追い返せません」
 彼がまさに怒ろうとすると、外のものは答えた。
「来たのはその、来たのは馬太傅です」