策瑜で三国志ブログ

一日一策瑜 再録しました。三国志、主に呉、孫策、周瑜について語ってます。基本妄想。小ネタを提供して策瑜創作してくれる人が増えたらいいな。

Nashichin先生 同人小説《蜜月》

臨時 一日一策瑜

Nashichin先生 同人小説《蜜月》

http://www.jjwxc.net/onebook.php?novelid=1746901
(晋江文学城では削除されている章があります。検索すれば、全部読める所もありますがHな広告がウザいので…)

現代転生の策瑜のお話ですが、狂言回しは陸遜という変わった構成です。

編集長の魯粛からあるスイーツショップを取材せよ、と指示された若手記者陸遜
そのスイーツショップを経営しているのは周瑜でした。ウェイトレスで尚香ちゃんも登場。

陸遜は店の取材をしに通います。
ケーキやドリンクを一つ一つ味わいながら、その製作に至った理由や名前の由来を聞き出していきます。
そこにはパティシエの孫策周瑜の青春の爽やかで優しい思い出が詰まっていたのでした。

例えば、第一話は「青梅」で梅子茶が出てきます。
青梅竹馬、幼なじみですよね。

晋江文学城は法律に則っているので厳しく削除されていますが、エロとかバイオレンスはないです。
何が引っかかったのかわかりません。

なんとも小洒落ているお話で、甘い物が欲しくなるような描写で困ってしまいます。

現代転生ものの策瑜では名作の一つだと思います。

洛陽令の条件?

臨時 一日一策瑜

洛陽令の条件?

都の行政長官です。警察権もあります。

廬江郡周家からは二人出ています。
周瑜の父の周異さんと、従兄?従甥?の周暉さん。

この洛陽令、通常通り業務のほかに、晴れがましい役どころがあるのを発見しました。

河南尹、執金吾らと皇帝の即位や葬礼で馬車に乗ってパレードで威儀を示す役割です。
ジャーン!

秩石は低いものの目立つ役割です。
無論、都の安定を守る役割も重責です。
また、出世コースの入り口付近?

司馬懿のお父さん司馬防が考査して曹操を洛陽北部都尉に推挙したことで、後に曹操自身から「今でも都尉にふさわしいかね?(どうだお前が思う以上に出世したろう?)」とつっこまれています。
曹操は若い頃、洛陽令になりたかったのです。

曹操さん洛陽令になるに足りないのは身長(見た目のよさ)が少々足りなかったのでは?
能力は抜群だったでしょう。
天子の威儀を示すきらきらイケメン官僚じゃないとできなかったのかも?

その洛陽令を二人出しているということで、忠誠と実務能力、さらに見た目のよさも優れていたのではないかと?

贔屓の引き倒し?

まだ、本格的に戦乱の始まる前だからできる人事ですけどね。

都が許昌になっちゃうと酷吏でガッチリ締め付けてそんな余裕も無さそうです。

周異さんは周瑜のパパということしか残っていませんが、周暉さんは江淮の雄として認められていたそうなので、見た目も慕われる理由の一つかもしれません。

周家、イケメン揃い説でした。

周瑜の親戚、周景さん。

臨時 一日一策瑜

周瑜の親戚、周景さん。

テキトーダイジェスト、スタート。長い。

周景、字は仲餐、大将軍梁冀の役所に招かれ出仕する。

仲ということは次男か。
梁冀といえば、幼い帝から跋扈将軍といわれ、有名な外戚一族としてその名の通り朝廷を跋扈しました。
周景さんも逆らうに逆らえず出仕したのかしらね?
秦宫という美男を妻の孫寿とともに寵愛したという記録もあるから…顔採用?(ううっ、まさかね)

ややもして豫州刺史に移り、河内太守となる。
賢く志あるものを好んで愛し、その才を抜擢、善いところを推薦し、常々人材発見に至らないところを恐れた。

父や祖父の代には抜擢される側でしたが、今度は抜擢する側にまわりました。しかし、豫州、河内と中央付近ですね。

毎年、推挙したものを奥に招き入れ、共に宴会をすることしばしば、それから都に送った。十分な贈り物をすることも多数。推挙した者の父兄や子弟にも優遇した。
常に称して言うには、「臣下を子のように扱う、これ以上の待遇があろうかな」

んーリッチなお話すぎて、ちょっと銅臭が…
羽振りがよすぎて「ヨッシャ、ヨッシャ」の総理大臣みたいですね。
当然批判も出てきます。

以前に司徒の韓演が河内にいたとき、私情はなく、推薦するにも、一言述べるのみで、その家に恩顧をあたえることもなかった。本人曰く、「わたしは推挙すればいいだけで、どうして一つの家のみかかわっていられようか」
こういったことから、当時の人はこの二人を比べて議論した。

どっちもねー極端ですね。
周景さんとしては、国のために賢才を送り込み、同時に自分の地位名声も確立させたかったのかもしれません。
また、周家が歴史が浅い家で南の方という地理的に不利な要素もあるかもしれませんね。田舎者と思われていたかも。
韓演さんは韓王信の子孫で潁川の出身ですから、ずうっと有利なんですよ。

豫州刺史になったときには、朝廷のために多くの人材を集めました。

中にはすごいメンバーがそろってます(地元の名声も聞き入れ、見る目はちゃんとあるってことですね)
汝南の陳蕃(三君)を別駕として招き(なかなか来なくて渋ったらしいけど、一応来て、ちょっと勤めて諫言がいれられず辞めた💧)ました。
潁川の李膺(八俊の一人、天下の模楷、登竜門の語源の人)、荀緄(荀彧のパパだよ、八龍の一人)、杜密(八俊の一人)、沛国の朱寓(八俊の一人)を従事とした。これらの人はみな天下の英俊の士で、後には等しく朝廷の重臣となりました。

みんな党箇の禁のオールスターです。
優秀すぎてやばい。
一応贈り物、パーリィ攻勢?が怖くて官に就くけれど、プライドが高いせいか、諫言しては辞めていくパターン。
何回かいろんな人に招かれては辞めを繰り返しながら出世していく。

周景はのちに尚書令になったとき、楊秉(弘農楊家です。楊彪の祖父、なぞなぞ楊修の曾祖父)をなんども招こうとしました。楊秉は病と称して出仕したがらなかったので、不敬な奴めと弾劾されてしまいますが、これを周景は庇っています。最終的には来て太常になっています。
また陳翔(八及の一人、劉表と同じクラス)を侍御史として招聘しました。

楊彪とはこのあたりからの縁があったのかな?
献帝の東帰の殿軍として楊彪と周忠は戦っています。

周景は中央に呼ばれて将作大匠(宮殿や宗廟等の造営を司る)となりました。
しかし、梁冀が誅殺されると、周景も故吏であることを理由に免官禁錮されてしまいます。

故吏って重要ですね。これが原因で出世するも没落するもありえるですね…。
しかし、こんなところで躓く周景さんではなかった!

朝廷は周景がもとより忠誠で公正であることから、これを許し、また尚書令に任命した。
太僕、衛尉に移る。

さすがですね。パリピは政変を乗り切りました。
ちゃんと忠誠を認められているんだな。
この時期、事件を解決して、名を上げていますが、そのやり方がワイルド。

延熹年間中(158年—167年)、都には順帝陵を盗掘し、市場で御物を売りさばいたヤクザがいた。市場の長は捕まえられなかった。
周景は詔を使い司隷校尉の左雄(順帝時138年に亡くなっている?ここ謎)を尚書台に呼んで責任を問い、左雄は伏して答えた。周景は虎賁の左駿に頭を打ちつけさせ、顔が血まみれになるまでやらせた。
周景は関係者に期限を三日与え、最後には盗賊を捕まえることができた。

やべぇー。周家ワイルド。文学的でインテリジェンスで血まみれワイルド。
のちに出てくる橋玄とシンパシーをちょっと感じるあたり法家なの??
というかやり口がどっちがヤクザ!?

延喜六年、劉寵(劉繇の伯父)に代わって司空となる。当時は多くの宦官が任命した自分達の一族の子弟を官位に就け、周景が太尉の楊秉と一緒に各種の邪でずる賢い人々について上奏した。将軍から州牧、太守以下免官にされるものが五十人余りいた。中常侍防東県の侯覧東武陽侯の具瑗らは皆罷免された。朝廷の上下で賞賛しない者はいなかった。

有力な宦官一味を罷免に追い込みました。
周景さん一人の功じゃなくて、いろんな人が勇気を出して告発しています。なかには反撃されて失敗しているものも。
党人の不満を抑えるためにも、ガス抜きで何人か始末されたのかな?

司空についた次の年(165)、周景は地震によって免官になります。延喜九年(166)九月光禄勳周景は罷免された陳蕃の代わりに再び太尉となります。
建寧元年(168)夏四月戊辰に太尉周景は薨じます。霊帝の策立にかかわったことにより、安陽郷侯が追封されました。

怒涛の生涯ですね。それでも畳の上?でお亡くなりになりました。
いろんな波乱がありました。外戚とも関わったし、党箇の禁の主要メンバーとは知り合いだし、宦官潰しもしているし、敵も多かったのではないでしょうか?
それでも、忠実で公正な人柄と人脈の広さでなんとか官界を生き抜いたのかな?

なお、周景さんのかっちょ悪い話が橋玄伝にありまして、橋玄さんと会ってその志をほめた後、梁冀の下っ端が悪さをしまして、橋玄さんにとっつかまりました。梁冀が「なんとか許してやってくれ」と忖度を求めてきました。故吏ですから周景さん断れません。橋玄さんに忖度を頼もうとするも、鋭敏な橋玄さん、先を読んでぶっ殺していました…。法家…。
故吏って大変ですね。

周瑜とは雅量高致で重なるかな…。党箇のメンバーより荒っぽい連中をまとめて率いていくわけですから。
失脚しないタフさと信頼性もありますね。
この時期の豫州の人脈がうまいこと周瑜の時代に繋がっていないかしら?

夏バテプラス後漢書訳すの荷が重い…。

周興さん。其の二。

臨時 一日一策瑜

周興さん。其の二。

前回は周興さんの華麗なる文章表現力が認められたお話でした。

彼の才能はそれだけでは無かったのです。
天文暦法の知識も豊富でした。

それも同僚は太史令も経験した張衡さん。
令和の元ネタの元ネタ帰田の賦でちょっと有名になった人です。この人は本当の天才で東洋のダヴィンチと言われています。
なかなか仕官の誘いに応じず、最後は天子の公車が迎えにきました。
文学、画才、地震計ほか機械設計も巧みでした。天文ももともと専門であったわけでなく大人になってから始めて、太史令にまでなってしまう……本物の天才です。

その張衡さんと周衡さんが尚書郎で同僚になっていたとき、論争が起こります。
(張衡さんのほうが年上の模様。相棒みたいだ、右京さんは張衡さんで、周衡さんは亀ちゃん??)

張衡さん周興さんがかかわった暦法に関する討論は、安帝の延光二年(123年)に起きました。
討論の始まりは、ある人は図讖と日食や災害等についての迷信から、当時使われていた東漢の「四分暦」を非難し、図讖に合わせて改めた「甲寅元暦」を提出しました。
また、ある人は武帝の異民族を討ち、国が久しく続くことへの願いをこめて昔の「太初暦」に戻るようにと考えました。

この議論の中には侍中の施延(朱然の先祖と思しき人物)の名前も見えます。三国志の登場人物の先祖同士が接近していたというのは、なんかワクワクしますね。

二人はこの二つの暦について批判し、誤りを指摘し、二つの暦の支持者を無言にさせたり、誤りを言わせたりして、暦法の後退を阻止することに貢献しました。
また、二人は長年の天文観測の記録から、各種暦法の理論を比較、演算して「九道法」がもっとも精密だとし、採用されるように建議しました。

すごいですね~とうとうオリジナル暦作っちゃいました!
ですが、この「九道法」は日の目を見ずに終わってしまいます。九道法自体は本当に精密で評価されているようです。
なぜ採用されなかったのか。

ややこしいから…みんな慣れない。
29日の月と30日の月の並びが交互ではなく不規則に連続するため、やりにくいように思われたようです。
これは月の運行速度が一定ではないことに気づいた結果そうなったので……正確さを追いかけた天才二人にはなんでもないことでも、他の議論していた高官とは意見が合わなかったようです。
専門の史官からは支持を得ていたようです。
あと、意見をとりまとめた尚書令の陳忠さんは、二人の意見は、「未知のことで問題があると(高官たちには)思われている。」と述べています。
結果、四分暦が継続されました。

進歩的過ぎて理解されなかったのかな?
科学的に理解する能力のある史官は認めてくれているのに。というか尚書郎なのになぜ太史官の職務で名を残しているのだろう?
それだけ二人がずば抜けていたから?

周興さんが後漢書で登場するのは以上です。
尚書郎になったあとのことは書かれていません。
帰郷したとか、亡くなったとか……

個人的な妄想ですが、この「九道法」で多くの高官を敵に回して官途を閉ざされたのかもしれません。
張衡さんも(本人が至って上昇志向がないため)官としては出世しないで終わっています。

天才だけど、立ち回りは今ひとつ苦手なタイプなのかもしれません。

さて、周瑜との繋がりとしては、数に明るいところでしょうか。
赤壁前、「江表伝」で曹操が八十万を称したのに対して冷静に数字を割り出しています。情報分析能力、そして、それを述べる表現力、両方とも周興さんからのDNAだったり家学だったりしたのかな?
周瑜はちゃっかり図讖の言葉も魯粛の説得に利用しています。信じているかは別として。

さて、周興さんの尚書郎止まり?を反省したのか、別のタイプのご先祖さまが登場します。
パリピです、周景さん。Yeah!

夏バテプラス後漢書が難しいので少しお休みします。
ボケ防止と称して書いているブログを読んで下さっている方には本当に感謝してます。励みになります。┏○ペコッ ありがとうございます。

周瑜の祖父(従祖父?)周興さん。

臨時 一日一策瑜

周瑜の祖父(従祖父?)周興さん。

廬江周氏出身の最大のスターは周瑜に違いない。
では、一番の天才は?というとこの方、周興さんぽいよ。

では、なんちゃってダイジェスト、スタート。

周興は若くして有名で、永寧年間(120~121)に尚書の陳忠さんが上奏して、安帝に推薦した。

陳忠さんは後漢書陳寵伝で出てきます。法律家の家柄で沛国の人。周興さん以外にもたくさんの賢才を推薦したとされています。
その推薦文がすごい。

「わたくしが思いますに、古代の帝王の号令というものは、言葉が優雅で温かみがあり麗しく、古典のなかにのこり後世に伝わりました。孔子は唐虞の文章を褒め称え、周代の文化をあがめていたのです。わたくしが見まするに光禄郎の周興は孝行者で友情に厚いと家庭でも著しく、その清らかで高い志は故郷でも知られています。古今に通じ博聞です。『三墳』(古代の神々三皇)『五典』(五帝)で彼の知らないものはありません。彼が書く文章は観賞に値します。尚書の職務は皇帝の命を下すところ、すなわち咽と舌であります。わたくしたち(尚書)は愚昧にして文に暗く、俗っぽく優雅さに欠け、毎度詔を書くのに、内外に知らせて、あちこちにお願いしています。またあるものは、お願いしなくとも、却って独りよがりで、言葉遣いも田舎くさく頑迷です。周興は奇才があり、遅れて生まれてきたのがまことに残念です」

周興さん激褒め!もすごいけど、この尚書…大丈夫?
書類書くのも、授業で作文やレポート書くのも嫌ですよね(よっぽど好きなことでもなければ)
光禄郎だったんですね。
宮中門戸の宿衛?を司る。兵士を指揮する官僚なのかな?イメージよくわからない。
どういう経緯で賢才ぶりを発見されたのかしら?
夜中宿直していたら詔を書けずに悩んでいた尚書郎の誰かに捕まって「頼むから書いてくれよ~締め切り明日なんだよ~」とか言われたのかな?
妄想するとおもしろいね。

安帝は深くその通りだと思い、詔を下して周興を尚書に召し出した。

周興さん尚書に遷りました。

作文能力、表現力の巧さって、周家のお家芸なのかな?
周瑜の発言は少なくて寡黙な印象ですが、蔣幹が来訪したときのイヤミとか劉備へのディスり(蛟龍)にもピリッとしたセンスが感じられます。
孫権陸遜との回想で、呂蒙周瑜の意見の述べ方には、修辞的に差があるっていってましたよね。
比べちゃ呂蒙が可哀想ってもんですよ。DNA的に叩き込まれているセンスなんですから。
むしろ、追いつこうとしてきた呂蒙がすごい。

さて、後漢書周栄伝では周興さんここで終わり。
でも、律歴志には登場されてます。
これがワケワカメなんだ(>.<)

さらに華麗なる周家の歴史は続く!

夏バテ中プラス後漢書難しくて…もう大変。
古典の知識もない上に現代語も、母国語のはずの日本語も怪しくなってるから訳が厳しい~!!
ボケが進行してる💧

ドラマ《江東戦神少年周瑜》

臨時 一日一策瑜

ドラマ《江東戦神少年周瑜
https://youtu.be/nixbxPf0aV4
f:id:muse3594:20200802210317j:plain
中国語字幕のみ。
細かいところで解読できずに??となりましたが、なんとか通して観られました。

キャスト表みて、一番受けたの小喬役の女優さんのお名前。「孫瑜」ちゃん。
ややこしい~。

袁紹配下になってる周瑜という衝撃的な始まり方!
玉璽をめぐり、袁紹配下の軍師と将軍(架空?)が死闘を繰り広げます。
孫策の持つ玉璽を狙い追っ手が(悪役商会並みの凶悪顔)忍び寄ります。
義賊のようなことをしている小喬ちゃんも登場。
黄祖もでるよ!
孫堅パパは回想で、かつ最期のシーンだけなのね(T-T)
さて、玉璽は誰の手に?

策瑜的な萌えはね、ありましたよ。
周瑜が手を怪我するんですよ。
孫策とは玉璽を巡り、立場も対立してしまいます。
周瑜を殴り気絶させて、その後、手に布を巻いて手当てしてあげるの。優しい?
ちょっとした憎まれ口とかがたまらない💕

ラストの数年後の周瑜、剣をもっている姿があるのですが、剣の銘が「蕩寇將軍」です。
芸が細かい。
陶弘景「古今刀劍錄」という本に、周瑜が打たせた刀ということらしいのですが、大変怪しい話と言われてます。
蕩寇將軍になったのは程普さんですもんね。

製作者もわかってて小ネタをぶっ込んで来たんだと思う。

少年周瑜というわりには、おっさんで、赤壁の時のころでもいいくらいな感じに見受けられる。
でも、知的で目が大きくていい役者さんでした。
「少年」がひっかかるの。
孫策の役者さんは、ちょっとひょうきんな表情もあって、好笑語!って感じでよかったです。
ふたりとも、まだ駆け出しだから失敗するのもおもしろかった。

周瑜袁紹から任務を引き受けるのは、董卓を殺すための兵馬を借りたいからなのですが、周暉さん達一族のことも頭に浮かんでいたのかな?
それとも、言葉通り漢室と民のため?

いろいろ考察できて、衣装もセットも渋くて意外に楽しめました。

周瑜の曾祖父、周栄さん。

臨時 一日一策瑜

周瑜の曾祖父、周栄さん。

周瑜の先祖は後漢書三十五巻に袁紹袁術の先祖袁安とならんで列伝されています。袁家ほど華麗に出世はしてはいないものの、なかなか個性的で、それぞれ、周瑜の先祖だなぁと納得いく優秀な面々です。(そりゃ優秀じゃないと名も残らないもんな)

テキトーダイジェスト。

周栄、廬江郡舒の人。字は平孫。

周栄さんの前がよくわかりませんが、ご子孫の家系図では陳留の周氏が廬江郡太守になり、そこから住み着いて廬江郡周氏が発展していったとか。正確さ、詳しいことは不明です。

章帝のころ明経科で挙げられる。

考廉じゃないところが一味違う。学識、実務派なんですね。
後々の発言から考廉は無理そう……。

司徒の袁安の役所に招かれる。

袁安は汝南郡汝陽の出身で、地域的に近いから、周栄のことも耳に入ったのでしょうか。

袁安はいろいろと相談をもちかけ、それに対して周栄も応えたので、袁安は大事に遇しました。

当時、外戚の竇憲の一族が幅をきかせていました。
袁安が北匈奴のことで竇憲と対立したときには、周栄は上奏文を起草しました。

大臣のスピーチライター!すごいですね。
匈奴というテーマも軍事的な側面もあり、興味深いです。

竇憲の人客の太尉掾の徐齮というものが、周栄さんを苦々しく思い、脅しにかかりました。
「お前は袁公の腹心の謀士として、竇氏を排除しようとしているが、都中に竇氏の勇者刺客があちこちにみちみちているぞ。しっかり備えをしておくことだな!」(悪役だなーそれも三下の)

そんな脅しにはめげません。

「私は江淮の孤生だ。先帝の大恩をこうむり、二つの城市で勤め上げてきた。今また宰相のの配下として、たとえ竇氏に殺害されることになったとしても、誠にかまわない」脅しには屈しない気骨の人です。

周栄さんはいつも妻や子どもたちに言い聞かせていました。
「もし、突然災厄にあっても、いそいで殯をして葬式をする必要はない。ささやかな死体となる覚悟で朝廷に物申したい」

外戚の竇氏が敗亡すると、周栄の名前は知られるようになった。
(ちなみに、袁安は竇氏が滅亡する前に憂慮しつつ亡くなっている。子孫が恩恵を被るかたちになった模様)

郾令から抜擢されて尚書令となる。

郾は潁川郡の東端くらいのところですね。

また外に出て颍川太守となり,法に触れて獄に下されたが、和帝は周栄さんの忠節を思い、共県県令に降格させた。

河内郡ですね、共県。

一年あまりして、また山陽太守となる。周栄は
勤めた郡県ではみなすべて賞賛された。

山陽郡は兗州ですね。出てくる県、郡が都から離れていませんね。僻地じゃない。

年齢と病気を理由に引退し、家で亡くなった。
詔で特別に二十万銭を下賜して、息子の周興を郎中に任じた。


どのくらいの年齢でお亡くなりになったのでしょう?結構長生き?周家的には。
二十万銭、どのくらいでしょう?


ところどころ、周瑜につながるDNAもしくは家風が感じられませんか?

死体はそのまま置いとけ、とか、死んでも忠節を尽くす姿勢、周瑜の死をみること帰するがごとしに繋がりません?
この危険を顧みないところ、孫家ともウマが合いそう。

この周栄さんの時点では、まだ廬江周氏は孤生なんです。有名な一門でもなく有力でもなかった。(謙遜もやや入るかも)

企画立案、文章力、説得力もあるし、なにしろ雄弁。また、中央付近に縁が深いのが赴任先でわかります。
法に触れたのは、なんでしょう?気になりますね。

生き様、覚悟がかっこいいから後漢書に立伝された?いや忠義かな♪(´ε` )

袁安さんは周栄さんと故吏の関係にあり、さらにはその手腕を存分に発揮させ名をあげる機会を与えました。
その子孫が、周家は袁家に感謝すべきだ!と考えてもしょうがないでしょう。
その縁を切り捨て、袁術から孫策に奔った周瑜はご先祖さまからは、一族のどら息子かもしれません💧
(いや、時局を見る目がある!と褒めたでしょうか)
袁家にとっても、周家は縁起のよい家なので、そばに置いておきたかったかもしれません。


周栄さんの息子の周興さんは後日、また。
(このひとも、また異色!)

ちゃんとした形で知りたい人は、岩波書店後漢書の現代語訳があるから、大きめの図書館でどうぞ🎵