策瑜で三国志ブログ

一日一策瑜 再録しました。三国志、主に呉、孫策、周瑜について語ってます。基本妄想。小ネタを提供して策瑜創作してくれる人が増えたらいいな。

周瑜の曾祖父、周栄さん。

臨時 一日一策瑜

周瑜の曾祖父、周栄さん。

周瑜の先祖は後漢書三十五巻に袁紹袁術の先祖袁安とならんで列伝されています。袁家ほど華麗に出世はしてはいないものの、なかなか個性的で、それぞれ、周瑜の先祖だなぁと納得いく優秀な面々です。(そりゃ優秀じゃないと名も残らないもんな)

テキトーダイジェスト。

周栄、廬江郡舒の人。字は平孫。

周栄さんの前がよくわかりませんが、ご子孫の家系図では陳留の周氏が廬江郡太守になり、そこから住み着いて廬江郡周氏が発展していったとか。正確さ、詳しいことは不明です。

章帝のころ明経科で挙げられる。

考廉じゃないところが一味違う。学識、実務派なんですね。
後々の発言から考廉は無理そう……。

司徒の袁安の役所に招かれる。

袁安は汝南郡汝陽の出身で、地域的に近いから、周栄のことも耳に入ったのでしょうか。

袁安はいろいろと相談をもちかけ、それに対して周栄も応えたので、袁安は大事に遇しました。

当時、外戚の竇憲の一族が幅をきかせていました。
袁安が北匈奴のことで竇憲と対立したときには、周栄は上奏文を起草しました。

大臣のスピーチライター!すごいですね。
匈奴というテーマも軍事的な側面もあり、興味深いです。

竇憲の人客の太尉掾の徐齮というものが、周栄さんを苦々しく思い、脅しにかかりました。
「お前は袁公の腹心の謀士として、竇氏を排除しようとしているが、都中に竇氏の勇者刺客があちこちにみちみちているぞ。しっかり備えをしておくことだな!」(悪役だなーそれも三下の)

そんな脅しにはめげません。

「私は江淮の孤生だ。先帝の大恩をこうむり、二つの城市で勤め上げてきた。今また宰相のの配下として、たとえ竇氏に殺害されることになったとしても、誠にかまわない」脅しには屈しない気骨の人です。

周栄さんはいつも妻や子どもたちに言い聞かせていました。
「もし、突然災厄にあっても、いそいで殯をして葬式をする必要はない。ささやかな死体となる覚悟で朝廷に物申したい」

外戚の竇氏が敗亡すると、周栄の名前は知られるようになった。
(ちなみに、袁安は竇氏が滅亡する前に憂慮しつつ亡くなっている。子孫が恩恵を被るかたちになった模様)

郾令から抜擢されて尚書令となる。

郾は潁川郡の東端くらいのところですね。

また外に出て颍川太守となり,法に触れて獄に下されたが、和帝は周栄さんの忠節を思い、共県県令に降格させた。

河内郡ですね、共県。

一年あまりして、また山陽太守となる。周栄は
勤めた郡県ではみなすべて賞賛された。

山陽郡は兗州ですね。出てくる県、郡が都から離れていませんね。僻地じゃない。

年齢と病気を理由に引退し、家で亡くなった。
詔で特別に二十万銭を下賜して、息子の周興を郎中に任じた。


どのくらいの年齢でお亡くなりになったのでしょう?結構長生き?周家的には。
二十万銭、どのくらいでしょう?


ところどころ、周瑜につながるDNAもしくは家風が感じられませんか?

死体はそのまま置いとけ、とか、死んでも忠節を尽くす姿勢、周瑜の死をみること帰するがごとしに繋がりません?
この危険を顧みないところ、孫家ともウマが合いそう。

この周栄さんの時点では、まだ廬江周氏は孤生なんです。有名な一門でもなく有力でもなかった。(謙遜もやや入るかも)

企画立案、文章力、説得力もあるし、なにしろ雄弁。また、中央付近に縁が深いのが赴任先でわかります。
法に触れたのは、なんでしょう?気になりますね。

生き様、覚悟がかっこいいから後漢書に立伝された?いや忠義かな♪(´ε` )

袁安さんは周栄さんと故吏の関係にあり、さらにはその手腕を存分に発揮させ名をあげる機会を与えました。
その子孫が、周家は袁家に感謝すべきだ!と考えてもしょうがないでしょう。
その縁を切り捨て、袁術から孫策に奔った周瑜はご先祖さまからは、一族のどら息子かもしれません💧
(いや、時局を見る目がある!と褒めたでしょうか)
袁家にとっても、周家は縁起のよい家なので、そばに置いておきたかったかもしれません。


周栄さんの息子の周興さんは後日、また。
(このひとも、また異色!)

ちゃんとした形で知りたい人は、岩波書店後漢書の現代語訳があるから、大きめの図書館でどうぞ🎵