策瑜で三国志ブログ

一日一策瑜 再録しました。三国志、主に呉、孫策、周瑜について語ってます。基本妄想。小ネタを提供して策瑜創作してくれる人が増えたらいいな。

家庭教師の支謙先生。

今日は支謙さんの謎をわたしなりに書いてみたいと思います。

別名を越。字が恭明。
もとは月支国の人で、祖父の代に一族数百人を率いて漢の霊帝時に移住し、交易と仏教の伝来をした一族です。
交易と仏教の訳経をしていたせいか、六カ国語に精通していたといわれています。(超うらやましい~分けて欲しい、その言語センス)
なかでも、訳経では、それまでの音訳から老荘思想を取り入れた意訳を用いて訳したり意欲的な人です。
十歳のときに漢語の書籍を学び、十三歳のときに胡語の書籍をマスターしたという天才。
支婁迦識の弟子の支亮から仏教の教えを受け、通暁した。
支謙さんは在家の仏教徒で、出家していないために高僧伝でも、オマケ扱い。その辺残念ですね。
献帝の末年に、呉へ移住。

建安末期、南陽郡から呉へ住民が大量に移住した事件があるんですよね。支謙さんも許昌近くや南陽あたりで商売してたのかな?南陽も人口多いところですもんね。

でも、なぜこのタイミングで呉へ行ったのか?
いよいよ、漢から魏へと禅譲が秒刻みとなり、仏教徒をめぐる環境にも変化があったのか、ありそうな雰囲気だったのかもしれません。
曹操青州(黄巾)軍を率いていましたが、曹操の死と同時に解散しました。
曹操曹丕では宗教に寛容さが違うと思われるようなことがあったのかも知れません。

たんに呉に仏教の素晴らしさを広めてやるぞ!と意気揚々と移ってきたのかもしれませんね。

呉の孫権としては、このスーパーマン賢人を諸手をあげて歓迎したらしく、博士として迎え、太子の家庭教師にしました。

はて、この太子とは?

支謙さんは太子が即位して、家庭教師を辞めて山で訳経に専念するようになった、とあるので、この太子は孫亮にあたるでしょう。

また、韋昭と同僚だったともあるので、孫和も教えてたかもしれません。

孫和を教えていた関連で、孫和の廃太子に連坐している様子もないのです。知恵袋と謳われ、博士として大事にされてます。渦中に巻き込まれるほど近臣ともいえず、メインの家庭教師でもなく、諮問機関のスタッフの一人のようにも思えます。いっぱい訳経する時間も確保できているし。

そして、もうひとり、孫登。
建安末期だと、ちょうど太子になる前で、いい感じに太子に付ける家庭教師のひとりとして採用されるのにいいタイミングです。
孫登の遺言には「黄老」の言葉が入っているんですが、これ仏教も含んでないかな?と思うのです。本当は黄老仏と言いたかったのでは。支謙さんは老荘思想にも造詣が深く、そのあたりも孫登に手ほどきしていたのではないかと。
それと問題発言の「孫和に位を譲りたいと考えていた」←コレ!
孫登は生母が身分が低く、養母の徐夫人は孫権と別居状態と後ろ盾が危うく、道義的に歩夫人とは距離を置いた付き合い(それでも、周家を通じて魯班とは近い位置かもしれない)。
弟の孫慮、孫和ばかり可愛がる孫権
それでも、まじめに太子を務め、人々の支持を集めていました。後の泥沼化した孫和から見れば、孫登はなかなかのサバイバーだと思います。
「孫和に位を譲りたい」
言うかな?
人々の期待を裏切ってまで、太子の位を譲るのなら何らかの理由があるはず。平和的に位を讓るのは伯夷、叔斉の例、後漢の明帝の例があります。
そして、仏教ならお釈迦様本人が王子様です。まさに王位を捨てた例。
あんまり孫権が孫和を猫可愛がりしているのを見たら、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、とでも思いたくなるかもしれません。
政策的にも軍事を孫権が握っているせいもありましたが、孫登は民を思いやる方向です。
(孫和→孫皓に正統性の御墨付きを与えてくれた存在でもあるので、⤴アゲ気味だとは思います)
孫登の行動はノーブレスオブリージュを守り、全体的にそつがないんですよ。
支謙さんの薫陶を受けたかもよ?

わたしの妄想としては、三人とも支謙さんが育てた!
メインの先生ではないけれど、孫登にはかなり影響を与えたかもよ?