臨時 一日一策瑜
満田剛先生「孫策・周瑜の「断金」の交わりの歴史的背景―孫氏と周氏・袁氏・朱氏」
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https://researchmap.jp/read0133375/published_papers/4089492
論文でお堅くはあるのですが、ムフフな乙女の心で読み進められます(理解しているかは別として)。
周瑜の家の先祖、橋玄との関わりにも触れています。
(周景さんと橋玄さんのエピソードは周景さんかっこわるい上、橋玄さんの剛直ぶりを示しているので、橋玄伝なんだよね。
時の外戚、梁冀の手下が悪さをして橋玄に取っ捕まえられる、梁冀の故吏だった周景さんが、これまた自分の故吏だった橋玄さんに忖度してやってくれと頼もうとしたら、事前に見越して橋玄さんはさっさと処刑してしまいましたとさ…さすが法家だぜ。
周景さん、梁冀の故吏だった割りに、一緒に自滅することなく、宦官関係者を処分したりなかなかのやり手であります。)
周氏、孫氏がつながる過程、孫氏が袁術の支配下に入る過程にそれぞれ、朱儁や陶謙が関わっているのが地域性などから分析されています。
そして、ここ↓
「これを見ると、孫堅と周氏の関係はやはりあくまでも孫堅の軍事力が前提とされていたもののようであり、少なくとも孫堅の死去直後の孫策と周瑜の関係は、(精神的なつながりはともかく)行動を通して見ると「断金」とまでは決して言えないものであったと考えられる。」
精神的なつながり…精神的なつながり!
10歳~15歳くらいにしりあい、邸宅の一部を提供されて住んで、お付き合いしていた訳ですが、それは年齢から判断しても家同士の都合。
孫堅の圧倒的に強い軍事力が魅力だったから。
それが孫堅の死とともに瓦解するなり、孫策も周家を離れます。
一回家同士の縁が切れたと思われたところからの復活愛(!)が断金の魅力ですね。
周瑜が一度袁術の命令により、丹楊から離れて江北に戻っていったのは、まだお家の都合に縛られ、自由に自立できる基盤がなかったのかもしれない。
ロミオとジュリエット、長江に引き裂かれる愛!
袁術が将軍職を周瑜に与えようとしていたのを固辞して、居巣県に飛ぶと魯粛から食料と本人を調達して、やっと孫策の許に帰れるんですよね。
周瑜は残念ながら、孫策の意を汲みながら自分で独自に動ける将でもあったので、あちこちに派遣されることも多く、実際一緒にべったりいたわけではないのが、乙女の悔しさではあります。
わたし陶謙の関わりが今ひとつ、いや全然わかっていないんですよ。かなり大物であることは間違いないのですが。孫策を嫌った原因と周瑜が劉備を毛嫌いして警戒する理由が繋がるのかな?