策瑜で三国志ブログ

一日一策瑜 再録しました。三国志、主に呉、孫策、周瑜について語ってます。基本妄想。小ネタを提供して策瑜創作してくれる人が増えたらいいな。

つかみにくい?策瑜の人物像。其の二。


臨時 一日一策瑜

つかみにくい?策瑜の人物像。其の二。

周瑜について。ざっくり私感。

周瑜の人物像は演義を読んで、正史を読むと全然違います。
また、後漢書を読むと、全然印象もガラリと変わってきます。
魅力が深まるんです。周瑜は何度も味変するんですよ!!
その辺、深く突っ込んで描写しているのは陳舜臣先生と柳宮燐先生だと思います。

世間のイメージでは美形のボンボンで音楽ができて戦も強くて、友情にも、美人の嫁にも恵まれた勝ち組英雄(ただし短命)というところでしょうか。

確かに周瑜は坊ちゃんです。
ですが、周瑜自身は分家で、当時、周家は短命なものが多く、斜陽にさしかかっていました。とどめを刺したのは董卓が一族の期待の星、周暉(従兄)が一緒に連れていた一族と仲間と諸共に殺害されたことでした。

Ifもので考えられている設定で、周瑜が独立するお話がありますね。わたしは周瑜は能力と支持があっても無理だと思うんです。
それが、この周暉と一族の殺害事件です。これで、一族の層の厚みがガクンと無くなったと思います。特に優秀で、洛陽県令(出世コース)を勤めた周暉は江淮の雄とも『後漢書』に書かれています。この前中後の世代がごっそり消えて、その分取り戻すには、どれだけ時間が必要か。また、周家は短命っぽいんですよ。きびしい。
劉備は別として、曹家、孫家は共に一族が多く、粒がそろったのがある程度いる強みがありました。
やはり、頼れるのは血族だったりするのです。

そして、周瑜復讐するは我にあり!と叫んでいいほど、復讐請負人ですね。
先ほどの董卓の件も、孫家に肩入れする理由の一つとなりました。董卓とまじめに戦って一発かましてやったのは孫堅だけですから。
その恩が、あったがゆえか孫堅の敵討ち、黄祖討伐も周瑜がやり遂げています。
孫策暗殺の黒幕らしき曹操赤壁で破り、天下への志を打ち砕いています。
孫堅への感謝がもしあったとしたなら、なおさら孫家の忠義は増すでしょうね。

袁家と周家の関係も『後漢書』を見るとわかります。
廬江周家の祖、周栄は袁安の故吏でした。
袁安のために数々の文章を起草していたので、袁安の政敵に狙われ、「てめえ、洛陽中刺客でいっぱいだからな、せいぜい気ぃつけな」と脅されてます。
それに対して、周栄は「ワシは江淮に独り生まれ、先帝の大恩を蒙り、地方官吏をやっとった、いまは中央で仕えとる。たとえおまえらにタマとられても覚悟のうえじゃあ。嫁と子どもにはワシがヤラれても葬式は出さずともよいと、言うちょる」
なんというヤクザな啖呵切りでしょう。かっけー。
決して周家はノーブルなだけのおうちではないですね。おやっさんはバリバリ任侠道です。
この後、政敵は斃され、袁家と周家の隆盛が始まるのです。
周栄さんは明経で挙げられているので、頭が切れる文章家なんでしょうね。

周瑜の代には、その縁ある袁家には袁紹袁術と二大領袖がいました。
どちらにも周瑜がつかなかったのはなぜか。
やはり、董卓への対処でしょう。
袁家も袁隗をはじめ大量に都に一族がいました。それを皆殺しにされています。
ですが、自軍にダメージを受けて、残りの誰かに漁夫の利をとられることを警戒し、董卓の軍にぶつかろうとはしません。せいぜい口を出すか糧秣の担当。それも、断ち切ったり…。
同じく董卓に恨みをもつ立場なのに、全く動かない袁家には失望したのではないでしょうか。
緣深い袁家を見限り、孫策を選んだ周瑜の行動は当時の世間から見て驚きではなかったでしょうか?
だからこそ、大歓迎もされるんですよね。

また、董卓を罰せられない朝廷も失望の対象ではないでしょうか。
周瑜魯粛ほど、露わにしてませんが、漢王朝は見捨てている態度です。魯粛への残留への説得で、「劉氏に代わるものは東南におこる」とか言っちゃってます。
それと、周瑜の子孫に伝わる家系図で、子どもに周徹と名づけているんです。この子は娘とも、次男の周胤の別名とも、三男とも言われ、意見は分かれています。
ですが、徹、西漢でも有名な武帝劉徹の諱を堂々と使うあたり、漢王朝に見切りをつけているのかなと感じました。

周瑜の先祖は周栄さん以外にも個性的な方がいるので、また後日。

周瑜好きな人は後漢書読むと、涙出ると思う。
突然、気ままな立場だった少年に一族の期待が一身に降りかかってくる悲劇に思えるから。
周暉さんが生きていたら、周瑜は琴の名人で名を残していたかもよ。(大妄想💕)

周栄さんは列伝三十五 大きめの図書館にあると思います。