策瑜で三国志ブログ

一日一策瑜 再録しました。三国志、主に呉、孫策、周瑜について語ってます。基本妄想。小ネタを提供して策瑜創作してくれる人が増えたらいいな。

つかみにくい?策瑜の人物像。


臨時 一日一策瑜 

つかみにくい?策瑜の人物像。

コメントゲストさんに人物像について聞かれまして、そう言えば小ネタばかりつっついて、大まかなわたしの考える二人の人物像って書いてないなと気づきました。

以下ざっくりまとめます。

孫策は、世間の評価がどうも低下中です。
特に名士層(筆頭は陸家)との軋轢が注目され、和解、支配に苦労した孫権の方が評価されています。
これも、わたしは実は孫策は呉、会稽の攻略に周瑜を伴わないことによって、のちに、周瑜を仲立ちとして関係改善を図ろうとしていたんじゃないかとも思えるのですが、どうでしょう?実際に、そのような時間は孫策には残されていませんでしたが、孫権の代には、周瑜は江東でも信頼される重臣となっています。若いのに。
もちろん、丹楊に置いていったのは、周家の後ろにある袁術の支配が及ぶのを嫌っていたともとれます。

そして、評価低下のもう一つは、「どうせ二代目だろ?楽してる」との見方。いいえ、楽は決してしてませんよ。中国のほうが、孫策徒手空拳からはじめ、基業したとの評価があります。
孫堅軍の核となる程普、黄蓋韓当は強いですし、謀臣として活躍する朱治は頼もしいし、頼りとなる一族若手もいます。
ですが、袁術の下で辛酸を舐めています。袁術は皇帝になろうとするだけあって、四方八方敵に回して連戦なんですよね。そりゃ土地も民も荒廃するわけだ。孫策は南方面で扱き使われていました。土地勘があるほうが使い勝手がいいと思われていたのでしょうか。
孫策の他にも孫家からは袁術の軍、または役人として仕えていた親類はおり、実際に前線に出張っていたのは、叔父呉景と従兄孫賁でした。孫堅軍の後継者は渡江に成功するまでは、孫策と一本化されていませんでした。もともと孫堅が分家筋なので、即、息子に継がれると決まっていた様子はありません。嘘ばかりついて扱き使う袁術に見切りをつけて、独立しようとする孫策。それを支えたのが、呂範、孫河、朱治であり、軍船、食料で応援したのが周瑜です。
彼らは孫策の器量と将来性を見込んで身を投げ出して仕えたのでした。(だから、このメンバーには孫権は頭が上がらないのよね)

小覇王ですが、なにか?
具体的に小覇王と出てくるのは三国志演義です。ですが、許貢の密書にも項羽が喩えとして使われています。
江東にとっては項羽は漢へのアンチテーゼとして、他の地方にはない意味合いを含んでいると思います。孫策もその強さと人気で、民には項羽の再来と腐敗した漢朝をなんとかしてくれると、期待されていたのではないでしょうか?(最近、項羽のイメージもただの暴虐な人物から変化しつつあるようですね)それに、横に虞美人ならぬ瑜美人(虞=瑜=yu)がいますから。なんなら、会稽に虞翻美人もいますし(笑)

アイドルはつらいぜ。
美姿顔、好笑語。美しい顔と姿。ユーモア性。しょっちゅう、冗談を言って周りを笑わせる。張昭すら笑わせる。周瑜もからかう。
冗談ばっかりかと思いきや、武力だけでなく、囲碁も嗜む文化教養もちゃんとある。(オカンの教育の賜物?)
そして、一人でほっつき歩く。
ここ、つかみにくい人だなと思います。なんか現代的。SNS疲れした若者みたい。わーっと騒ぐのも好きだけど、一人の時間も欲しいの。明暗があって、繊細。さすが、お母様が月を飲み込んで産まれてきたお子さまは違う。
どこか孤独。
一人で馬乗ってぷらぷらしているのを、発見して見つけたのが虞翻虞翻も医術を心得ているひとですからね、孫策の青年らしい繊細さに触れて、「きゅん」と一層惚れてしまったと思います。(それで、虞翻の一生は、狂わされるわけだから魔性の男ですね)

孫策の若くして君主となった孤独は、つねに傍に周瑜がいたら、また違った形になって昇華されたんじゃないかなと思います。残念。
ちなみに、周瑜は音楽がストレス解消であったり、精神修養になってたと思います。琴は香を焚いて心静かに弾くものとされているからです。一度落ち着かなければ、弾けない。

孫策だけまとめてみました。
策瑜二人の強さと、周瑜篇は別にまとめたいと思います。


井波律子先生の書く孫策周瑜は爽やかかつ華やかで魅力的です。
これも図書館にあると思う…。