「重帘」(重ねた帳)
室内には重々しく安神香のの香が立ちこめていた。孫権はまぶたが重く、何度か誰かが呼ぶ声がしたが、どこかわからぬ深い井戸から伝わるようで、遠くもなく近くもなく曖昧模糊としていた。それからしっかりとした手が彼の肩に触れて、寝台から助け起こした。それでやっと無理やり目が開いた。
昨夜彼を案内した侍者で、彼が目が醒めたのを見ると、すぐに手振りで示した。自分は片方に下がり、侍女達が孫権の洗面とうがいを手伝うのを見ていた。また誰かが窓の格子を開けた。寒風と室内の暖かい空気がぶつかり、しーしーと音をたてた。
孫権の脳は少しずつ少しずつ醒めてきた。簡単に髪を解いて結い、また食べものも少し口にした。そこでやっと袁術に会いに行くのだと告げられた。お兄ちゃんもそこにいると。
彼は人に連れられて庭を通り過ぎた。気温は寒く冷たかったが、太陽の光りは明るく、池には蓮の枯れ葉が残っていた。松柏の枝の緑もしんしんとした冷たさを感じさせた。上に架けられている絹の飾り紐は見たところ夜間のきらびやかさほどではなかった。昨日の夜いったいどの道を歩いたのかわからなかった。
いくつもの窓を通り過ぎたあとに、紋様が華美な衣裳がちらりと見えて、離れがたかった。
侍者は身を屈めて、軽く咳払いをした。
「左将軍の中庭に入っております、どうか公子にはあちこちご覧になりませぬように」
孫権は顔をちょっと赤くした。小声で返事をする。俯いてひたすら歩き精神を集中した。
しかし、また疑惑が起きた、すでに孫策がいるのに中庭で会う必要があるのだろうか。
彼はいっとき集中しすぎて、人にぶつかりそうになった。意識を戻すと侍者はちょうど脚を止めた。
ある女子が出迎えた。侍者は孫権に向かって言った。
「ここは左将軍の内室です。わたくしめは入れません。孫二公子はこのお嬢さんについて行って下さい。くれぐれも失礼のないように、人を煩わさないように」
孫権は訳もわからず頷いた。女子についていく。
彼が一歩踏み入れると、全く知らない世界に入ったと感じた。
内室だというが、部屋は深く広い、一層一層紅梅色の薄い帳が張り巡らされてあり、外から見ると室内に靄がかっているように見えた。
この靄は暖かな馥郁たる香気を帯びていた。孫権は少し前にこの香気で目覚めたが、この室内で焚かれている香はさらに上物で純粋だった。
だんだん中に入っていくと、太陽の光りは暗くなっていき、灯火が必要になって、結局は灯りが不足した。
最後の一幕をめくりあげると、数人が振り返った。一人は寝台のあたりに座る袁術だった。もう一方に二人跪いていたが、知らない人だった。
孫権のお兄ちゃんは錦の帷の中で眠っており、顔色は蒼白で様子は落ち着いていて、身じろぎもしなかった。
孫権は頭の中がわんわんと鳴っているのを感じた。恐れが湧き上がり、室内の纏綿とした香気が彼の胸の内に巨大な蛇のようにわだかまり、息すら苦しく感じた。
跪いていた一人が彼の目の前までやって来た、小声で言う。
「小公子、あなたのお兄さんは無事です。わたくしめが調合した薬で、安眠させているだけです」
孫権は彼の目を見つめると、一気にゆるゆると落ち着いてきた。
袁術は立ち上がり、そっと孫権の肩に触れた。彼と医者に出て行くように示した。二つの幕のそとに出て行くと、やっと口を開いた。
「昨夜よからぬ者が潜伏していて、わしを刺そうと狙ったのだが、そなたのお兄ちゃんがまことに忠義で守ってくれ、傷を負ったのだ。あの二人は江淮でも最も有名な医者だ、彼らがいれば、当然無事だ」
身辺のその人は頷いた。
「あの女は一撃も成功させることもできず、力も足りなかった。反対に孫校尉に捕らえられるところとなり、大ごとにはならなかった。血はいささか流れたが、皮肉の外傷のみで、筋骨には及んでない。彼は基礎体力がとても優れている。安心休息しているだけで、気血の巡りもよくなるだろう」
孫権は不思議に思った。
「女子?うちのお兄ちゃんは武芸もとても優れています、なのに一人の女刺客に傷をつけられたの?」
その医者は俯いた。
「もし平時であれば、当然そんなことはないだろう。ただ校尉は先に急いで寿春に戻られ、連夜駈け続け、寒さが身に染みていた。それから……いささかお疲れであったし。あの女子は少しは武芸を嗜み、突然騒動を起こしたが、校尉は混乱中に将軍を守って刀を阻み、またみずから女刺客を手捕りにした。みな忠心からであり、焦ったのだろう」
孫権は我慢できずにあたりをみまわした。袁術が言う。
「さっき薬を塗るときに、そなたの兄が会いたいと申しておったので、そなたを呼びに人を遣わしたのだ。しかし、途中で煎じ薬を飲み、ここでは安神香を焚いており、結局我慢できずに眠ってしまった。いまは邪魔しないほうがよかろう、でなければ……」
もう一人の医者が帷から出てきた。微笑んで言う。
「将軍、孫二公子、兄弟を思う心は繋がっていますな。校尉が目覚めました。二公子お入り下さい。ちょうどよい、我々も傷口の薬を取り替えよう」
孫策は寝台に寄りかかっていた、孫権が入ってくるのを見て、彼に向かって笑った。孫権も思わず笑った。お兄ちゃんの側に座る。二人の医者が彼の里衣の肩を解くと、包帯に滲んだ紅いあとが見えた。我慢できずに無事な方の手を握った。
孫権は傷口を見ることができなくて、目を天井に吊された明珠の柔らかな明るい光を見ていた。彼はそれを見たことがあったが、どこで見たのかは思い出せなかった。
孫策は弟の手を握っていたが、目は袁術を見ていた。
「袁叔、わたしのお願いを聞いてくれることを、忘れないで下さいね」
袁術は優しい声で答えた。
「それはもちろん。かまわずどんどん申してみよ。そなた何が欲しい。わたしはすべてあげよう」