「水精」
室内は水蒸気が充満していた。湿り気があり、暖かい。しばし立っていたが、服が皮膚に張り付き、呼吸もさらに重苦しくなった。
袁術は軽く咳払いした。
「孫校尉はついに戻ってくる気になったのかな?」
孫策は水中で身体を斜めにしていた。あるかなきかの笑みを浮かべていた。
「わたくしめは今は礼をすると不味いことになりますので、左将軍には悪く思わず、どうかお許しを」
袁術はふっと息をついた。
「悪く思うな?伝令を軽んじ、思いのままに振る舞い、召し帰しに従わない、そなた言ってみよ、わたしがどの一件を咎めるべきか?」
彼は浴槽の縁に立ち居丈高に孫策が自分の足下の方へ泳いでくるのを見ていた。
十二月に入り、彼は盧江に人を遣った。孫策に書状を送り、すぐに寿春に戻るように命じた。袁術は腊日に群臣を率いて祭祀と宴会を行うつもりだった。孫策にも書状を送ったが、舒城の戦況は重大であるから、主将が軽々しく離れられないと。半月に及び、袁術が人に命じて伝令を送った。みな功無くして帰ってきた。元旦を目前にして彼は人を曲阿の呉夫人に挨拶に送り、孫権を寿春に迎えた。また袁耀を自ら盧江へやり、孫策に寿春に戻るように言わせた。
細かな波が縁にあふれて、彼の絹の靴と裾を濡らした。
孫策の顔は湯気に包まれていた。彼のこれまでの日々の数多の醒めない夢のように、ずっとはなれていたのにこんなに近くて、彼はその苦しさを我慢しなければならなかった。また顔を強ばらせたままでいて、相手が彼の足下に屈服して小声で憐れみを求めるのを待っていた。
彼はとっくに許すつもりであった。袁耀も必ず孫権のことを漏らすだろうし、孫策は必ずすぐに馳せ戻ってくるだろう。
思いここに到って、いささかの得意、いささかの怒りを感じた。もしそなたがこうまでわがままをしていなかったら、わたしもこうも下策に手を出すことはなかったのに。
彼は手に一つの金丹の玉瓶を握っていた。片手は空けておき、指先で孫策の仰のいたかおをそっと摩った。
「策児、そなた当ててご覧。この瓶には何が入っているのか?」
彼は上着と靴、靴下を脱いで、浴槽の縁に座った。瓶を軽く振ってみると、光りが蠢いて、何かが手の中に落ちて、手のひらを開いて孫策の目の前に見せた。透明な小さな魚の形をしていた。
孫策は両腕を重ねて浴槽の縁に乗せた。袁術の手の中の精巧な命のないものを見つめた。
「水晶?」
袁術は笑いながら首を振った。
「もし普通の水晶なら、なんの珍しいものではない。これは数十年前に、胡人の商人が洛陽にはるばる来て、言うにはローマの皇室からでたもので、尊いことこの上ない、当然大漢の天子に献上して、通好を示すつもりだった。それから紆余曲折して、わが袁家の手の物になった」
皇室のものがいかに他へ流れたかは、当然避けて語らない。彼はしばし間を置いて、言った。
「手を出しなさい」
孫策は長く風呂に浸かっていたので、指先はふやけて、手のひらはうす桃色に透き通り、湿り気で水の光りが覆っていた。その水晶の魚は彼の手の中でちょっと身をひねり、一匹が跳ね飛び、手を握り締めようとする前に身を翻して、風呂の中へと飛び込んだ。
孫策は驚いた。
「これ……これは明らかに……」
袁術は玉瓶を取り上げ、びちゃぴちゃとその中のものを流し入れた。
十数匹の魚が水の中を泳ぎ、あるものは時折水面を飛び跳ね、鱗をきらきらと光らせた。
彼は心中得意になり、自分を抑えられなくなっていた。
「これは水精という、普段は水晶と変わらないが、一旦水に浸すと、生けるものとなる。この世に得がたき珍しいものだ」
孫策は冷ややかな顔をしていたが、目の色はいくぶん驚いていた。
「水に入れて生けるものとなるなら、また捕まえられるのですか?大ごとになりませんか」
袁術は笑った。
「そうはならぬ。そなたわたしの手のこの指輪が見えるか?」
彼の親指には飾り気のない金色の指輪があった。彼は普段の生活が豪奢であったので、孫策は気にもしていなかったが、この時問われて、頷いた。
袁術は孫策の肩をつかむと、急に持ち上げた。あたかも半身を水面から引き上げ、自分の懐の中にきつくだきしめた。着ているものは大半が濡れていた。
懐の身体は反射的にもがいた。まるで生ける魚のように。暖かな肌は熱を持ち始め、耳の付け根が充血して紅くなった。
孫策は背中にひんやりとしたものを感じた。あの指輪が彼の背骨の中間に当たっていて、下に滑り降り、腰際に絡みつき、下腹へ伸ばされた。
袁術は彼の耳元で小声で囁く。
「この水精は黄金を喜んで食す。金器の存在を感じたら、自ずと先を争ってやって来る」
孫策は長い息を吸った。袁術の手はすでに水際に滑り落ちていた。
「そなた感じているか?」