夏の暑い六月のこと。あただしく戦車は整った。四頭立ての戦車は逸り、武具武器も積み込んだ。
初平元年(190)六月のある昼日中、舒城の人々は耳を塞ぐほどうるさくやかましいということをしっている。
周家の小公子の周瑜はいつも出かけて部曲を訓練する様子もなく、室内で端座して手に白い白布のきれをつかんで悩んでいた。
通りがかる使用人達はひそひそと話した。
「小公子はどこからトクビコンを手に入れたんだ?」
トクビコン(犢鼻褌)は景帝の時代、司馬相如が酒売りをしていた、その時に穿いていたのが、それである。
貴公子がどうしてこのような下男や使用人の下着を、もっているのだろうか?
事の次第は早朝にさかのぼる。周家の南の大きなお屋敷に住む孫家の大公子孫策が意気揚々と義弟の周瑜に一緒に狩りに行く約束を取り付けに来た。話しが終わらぬうちに、人を遣って、去り際に置いていったのがこのトクビコンである。
周小公子は半日、手に持ってアレコレしてみたが、どうやって一枚の布を着られるのかわからず、考えた末、出かけた。
孫策は部屋に入るなり上着を脱いで、足を延ばし扇でもって涼んでいた。
周瑜が入ってくると急いで足を引っ込めて座り直した。周瑜は心の中で一瞬「足を引っ込めないで、ちゃんとトクビコンを穿いているかどうか見せてくれればいいのに」という思いがよぎった。すぐにこんな考えは軽薄過ぎると思い、心のなかで急ぎ取り消し、義兄に対して拱手してあいさつした。
孫策も周瑜のことをじっと見て、いつものようにまじめな格好をしているのに気づいて、内心密かに笑ったが顔には出さなかった。
「公瑾はオレに何か用か?」
周瑜はしごくまじめに白い布を取り出した。
「兄上、教えて下さい。どうしてこのトクビコンを置いていかれたのですか?」
「お前に穿かせるためだよ。オレ手ずから作ったやつだ」
周瑜は手もとの縫い目のない白い布をじっくり見た。
作った?
「オレは針仕事はできないけどな。でも、この布はオレのげんこつで揉んで柔らかくしたものだぞ」
「どうもありがとう。兄上」
周瑜は真心こめてお礼を言った。
「考えても見ろよ。お前達周家の馬術はうちの孫家に及ばない。それは長袍を着て不便だからだ」
「馬術ならばわたしだって負けません!」
「馬術は洛陽のお坊ちゃん方の得意とするところだぞ。将来天下取りで重要なのは馬術で敵に突撃し陣を陥とすことだ」
「最近わたしの馬術も進歩しました」
「そうだそうだ。トクビコンを穿けばもっと便利だ」
孫策は立ち上がって猿のようなポーズをして見せた。粗布の上着の下の脛は日に焼けて黒々と光っていた。
周瑜はそれを見て羨ましくなった。立って戸を閉めに行った。
「公瑾、戸を閉めて何をするつもりだ」
「トクビコンに着換えます。使用人が見て母上あたりに伝わると喜ばないと思うので」
「オレ達の母上がどうこうしようと、今戦争に行くもので穿かないものはいないぞ」
「オレ達の母上とか言うのはやめて下さい正式な挨拶はまだでしょう?」
「お前がうちの母上に挨拶した次の日にすぐに行きたかったのに、夫人は身体の調子が優れなくて日延べになっていただろう今はまだ良くなっていないのか?」
周瑜は母親の病の話しになると眉をしかめて言葉にせず、首を振った。
孫策はその様子を見て気持ちを察し、話題を変えた。
「さぁ、穿くのを手伝うぞ」
ふすまの外では孫家の者達にはなにも聞こえなかった。
行き来する使用人はかすかに部屋の中から聞き取れた。
「公瑾、足をもう少し開けよ」
「伯符、やめて。きつすぎるよ」
使用人達は思わず感嘆した。
「うちの公子と周家の小公子はなんと仲の良いことだろう」
*トクビコンはふんどしのような下着です。身分の高いひとがズルズルとした長袍を着るのに対して、身分の低いものは短い上着にトクビコンを穿いていたようです。本来そういう服装をするはずのない司馬相如がトクビコンを穿いて洗い物とかしていたので歴史に残っているのです。