六章 奇恥大辱 大いなる屈辱
孫策が去った後、家の中は二人の女主人がとりしきり、一時客人や友人達とのつきあいもぐっと減った。屋敷の中も少なからず静かになり、孫権も落ち着いて勉強できるようになった。
が、しかし、孫権はかつて無いほど、勉強に集中できていなかった。
あの日、木陰の中お兄ちゃんと周瑜の身体の影が孫権の脳内でぐるぐるとまわり、落ち着きを乱して無くさせた。
つづけて二、三日も何の書物も手につかない後、孫権は決めた。
もう、こんなことはしていられない。
自分の頭の中をすっきりさせるため、孫権は少し当日の様子を注意深く分析することにした。
お兄ちゃんの孫策がちょうど遠くに従軍する……、そこに周瑜が見送りに出向いてきた。
あの時、孫策も周瑜も近く出発するのを強調していた。そう言いつつ周瑜は顔を近づけて、そして……。
孫権は何かわかったような気がした。
あるいは、周瑜においては、これは見送りの一種のやり方かもしれない。ただ自分が固陋にして寡聞のためよく知らなかっただけなのだ。
孫権はよくよく理由のあることに思えて、あの二人が木陰で他から避けて離れていたのも、あるいは、それが周瑜のこの見送りのやり方の特別であるが故に他人に見られたくないのが、自分は無意識のうちに見てわかり、震えるほど驚いた。ただくわしく考えるに道理のないことではない。もっとも今、後になってから考えると、あの場面はとても興味深かった。
この考えがひとしきり終わると、孫権はさっぱりとした。気持ちも前の数日間よりもぐるぐると悩むのも収まった。
また、心を落ち着けて勉強できるようになった。書き物もした。
チリを払って、孫権はあっさりと竹簡に刻んだ。
「送別、周瑜、特殊の礼、人にみられるなかれ」
生活は学校の単調な行き帰りに戻ったが、孫権は冷たくされるのも気にならなくなった。
そんな中、父上とお兄ちゃんが家人に手紙を持たせて寄越した。ただ、多くは金を惜しむが如く字は少なくて、無事を知らせるだけだった。
それからある日、早朝に孫権は出かけると、早起きした周瑜に街で出逢った。周瑜は彼に対しておおむね優しく、自分から孫権に声をかけてきた。ただ、孫策が出陣した後は、周瑜は孫家の門をくぐることは久しく無く、孫権にちょっとがっかりさせていた。
日々は波瀾も驚きもなく過ぎていった。次の歳の春先、孫堅は再び家の門をくぐると、中から迎えに飛びだしてきた孫権を抱っこした。
「いいこだ。また大きくなったな。ハハ」
お兄ちゃんがついてきていないのに気づいて孫権は不思議に思った。
「お父さん、お兄ちゃんは?」
「あいつは本陣で留守番だ。わしは道すがらおまえたち母子の様子見に寄ったのだ」
孫堅は孫権を降ろした。
孫権は俯いてちょっと考えると、すぐに孫堅の着物を引っ張った。
「お父さん、言ったよね。ぼくがもう一つ歳をとったら、従軍に連れて行くってね?今年ぼくはもう一つ歳をとったよ!」
孫堅はちょっと驚いた。
「それは……」
「お父さん、忘れたの?」
孫権はあわてて言った。
「ぼくたちは約束だって手を打ったし、お父さんは漢たるものは発言に責任を取るって。まさか後悔してないよね」
「おぉ、父さんは後悔はしてない。連れてく、お前を連れて行こう」
孫堅は躊躇いもなく返事をした。
このことは呉夫人と話すと、呉夫人は大いに泣くことになった。
「権はまだこんなに小さいのに、あなたは血腥い戦場にどうして連れて行こうとなさるの、怪我でもさせたいの!」
孫堅は呉夫人が泣くのが面倒になって、とうとう言った。
「わしはもう権に約束したんだ。信頼を失ってはならぬ。そなたはもう言うな!」