臨時 一日一策瑜
石井仁先生「富春孫氏考」
精読していませんが、ツィッターで紹介されていたので、おすそ分け。
乱暴にまとめると、孫家はそんなに貧乏でも卑賤な出でもないよ、ということかな?
アカデミックなことは余所にお任せして、これを読んでいて気づいたこと。
もともと会稽郡は広く、三国時代の呉郡、建安郡を含む領域であったこと。
呼び名の変遷
秦代 会稽郡
漢初 呉郡 その後→楚国→荊国→呉国→会稽郡
後漢 129年に会稽郡が広すぎて不便という理由で
会稽郡北部を分割して呉郡と分かれる。
後漢末は県も細かく分割されていることから、北方からの人口流入と生産力アップがあったのかな?
呉郡の南端にある富春県に住まいする孫氏一族はもともとは会稽郡のど真ん中にいたということになります。
会稽まで文化圏が広がると、ムフフな乙女には思い当たることがあります。
「南風」=男色
男色、契兄弟が盛んな地域です。今の福建省あたりらしいです。
当人の男性同士だけの関係ではなく、お互いの家族も息子の相手が来たら歓待するというアットホームな関係です?女性を排斥するわけでもなく、弟分の契弟が結婚する際には、結婚式の費用も契兄が用意してやります。関係は歳をとっても続き仲良く付き合います。
孫策……この文化に触れていたんじゃなかろうか?
会稽転戦中に民情として知っていてもおかしくないな、とは思っていましたが、もともと孫家が会稽郡の真ん中に位置するならなおのこと!
生まれ育ったのは、江淮のあたりですが…
両親とも旧会稽郡の真ん中ですし。
実際、策瑜は親公認だし、周瑜の結婚式の世話というか、相手から式まで孫策持ちだし、周瑜の葬式は義弟孫権による国葬だから、このタイプに近い。
もし、策瑜がこの契兄弟なら、周瑜の独立説とか難しくなると思いますがどうでしょうね?
台湾の方による契兄弟解説
https://youtu.be/H5E-0TYf_Bg
石井仁先生の曹操解説は面白かったです。
素人でも読めると思う。用語が多少難しいくらい。