策瑜で三国志ブログ

一日一策瑜 再録しました。三国志、主に呉、孫策、周瑜について語ってます。基本妄想。小ネタを提供して策瑜創作してくれる人が増えたらいいな。

二世はつらいよ?

臨時 一日一策瑜

二世はつらいよ?

周胤くんです。
酒と女に溺れておる!と孫権に(それをよりによって孫権が言うかな?)咎められ、平民に堕とされ、流刑に遭い、流刑地でそのまま亡くなりました。悲しいかな周瑜より短命に終わりました。

周家の家系図では周胤公と大事な先祖の一人としています。宿松は烏が鳴いたから腰を据えた土地であるとも、周胤も嫁(孫皎の娘?)で、周胤の死後ショックで死んだとも伝えられています。夫婦仲良さそうな書きぶり。
そして、そもそも、流刑の理由も妹の夫である孫登が優しすぎるので、口出ししたところ、孫権の怒りを買ったという理由にされていました。
ご先祖である周胤を決して悪く書きません。
ですが、皇太子の外戚というのは、罪がなかなか許されず、重く見られている原因のひとつかもしれません。
肝心の妹の皇太子妃も早死にみたいですから、もしくは恃みにできなかったかもしれませんしね。

清代の李安溪という政治家、文人が、周胤が酔うたびに、周瑜の功績を持ちだして語るダメな酔っぱらいの典型だったため罪に堕とされたのでは?と推測しています。
たしかに、嫌かも。孫権の大事な義兄ですからね。
又、「うちのパパはこんなに功績があるのに、子孫のオレは不遇~」とか言ってても腹立つことかもしれません。

ほかにも、女におぼれている、普通の二世坊ちゃんのやりがちなことなのに、なぜ咎められるのか。
彼の妻は宗室の娘、たぶん孫権のお声がかりでの縁組みで、娶った嫁なのでしょう。「うちの夫ったら又、女作って…」とこぼしたら、即罪に問われます。
「うちの一族の娘を馬鹿にしたら生かしておくものか!」ということでしょうか。

ほかに、咎められても、周胤の反省の色が見えなかった。
草創期にはよく見られる、人殺しちゃったけれど、反省の念がよく見られるので(その上成長が期待される人物だったり)許される、呂蒙凌統のパターンがあります。
その辺、ボンボンだった周胤はプライドが邪魔して頭を下げられなかったのかな?

そして、周胤をゆるしてあげてねの嘆願メンバーのすごいこと。
諸葛瑾は、公安での上司だと思います。
歩騭と全琮は元兄嫁の孫魯班が頼み込んだかも?
孫登と歩夫人の仲は良くもないけれど、対立もしていない。王夫人と孫和に対するには、義妹の嫁いだ孫登を支えていくしかない。
外戚として、周胤も必要とされたのでしょうか。
もしくは、亡き夫への情から助けたのかな?

諸葛瑾:大将軍、左都護,領豫州牧(元上司)
步騭:驃騎将軍,領冀州牧。(たぶん魯班ちゃん)
全琮:衛将軍、左護軍、領徐州牧(魯班ちゃん夫)
朱然:車騎将軍、右護軍、領兖州牧(?周瑜?)

朱然はわからないですね。単純に、周瑜に世話になったからかな?

周胤に、そして、このあと周護に軍を引き継がせなかったというのは、周家に当たりが強すぎる気がします。
これは、周瑜と周家は別に何か思うところが孫権にあったのではないかと思います。
孫堅が亡くなった後、孫策は周家から提供されていた家から出て行きます。
十七歳の孫策には、孫堅がいない孫家には利用価値が周家に無いことを自覚していました。
ですが、当時十歳の孫権には居心地の良い家を追い出されたと感じたかもしれません。幼い少年の心に傷がついたかも…。
周瑜陸遜に思い出を語るあたり、大事な部下であり義兄だと思いますよ。

さいごにコレ!↓
黒白鯨先生 《侯将周胤》
http://blog.sina.cn/dpool/blog/s/blog_48f11133010005g7.html?type=-1

小説なんですが、大胆な推理。
なかなか前線で活躍できない周胤は、皇太子に近づくことを思いつく。皇太子はちょうど呂壱の件で頭を悩ませ、譲位まで考えていた。それを叱りつける周胤。
元兄嫁の魯班が周循の面影を求めて誘惑してくる、それをけんもほろろに断る。怒った魯班に陥れられる周胤。(これは最高に孫権が頭にくる理由だなと思いました。同姓、同族にも手を出し、出される?魯班ちゃんならワンチャンありえる?)
全体的に甘っちょろい周胤にいらつき、可哀想にもなります。妹は皇太子妃としてよりも琴師として生きようとする不思議ちゃんです。

周瑜の家は、周瑜の代ですでに敗家(落魄)の気配が漂っていると思います。
廬江周家の最後の栄養分を吸い取りきってって周瑜という大輪の華を咲かせたのかもしれません。