一日一策瑜
「家の方向」
わたしが学生の頃(大昔)楚漢の鴻門之会での宴席の東西南北の意味をしつこくやりました。
天子は南面す、臣下は北面す、ともいいます。
孫策一家が舒に引っ越してきたとき、周家は「南側」の家を貸しています。
『建康実録』でも「瑜见策善相友待,推道南大宅舍之策,升堂拜母,有无与同。」と書いてます。
『資治通鑑』では「勸策徙居舒;策從之。瑜乃推道旁大宅與策,升堂拜母,有無通共。」と向きは書いていません。
当時一家の建物自体でも、基本、主の住まいは南側が堂(南側がオープンになっている)に室(戸口で出入りする部屋)がくっついている構造となっている建物です。
そして、残る東北西に家族の住まいが別棟で配置されている。
道の南側、それは周家と孫家の力関係が当初は主と客だったことを示していると思います。
『三国志』、『建康実録』は、その辺をしっかり書いて強調し、後に主客転倒し、「周瑜が孫家に臣従したんだよ」と言いたかったのではないかと思います。
でも、周家ならいっぱい家もってて、日当たり一番いいお家を貸してあげたのかもね?