策瑜で三国志ブログ

一日一策瑜 再録しました。三国志、主に呉、孫策、周瑜について語ってます。基本妄想。小ネタを提供して策瑜創作してくれる人が増えたらいいな。

周瑜と周家


一日一策瑜 
周瑜と周家」

孫権周瑜死後の子どもや、親族達の扱いが冷たいという説があります。
私は周胤は妹の孫登妃の周徹を通じて太子に接近して、危険な外戚の兆候として、軽い罪で流刑に遭ったのではないかと考えます。
周胤の公安での上司である諸葛瑾が庇う程度の微罪だったとも思います。
周護に兵を継がせなかったのも周家への危険視と圧力をかける狙いも多少あったかと思います。
なぜそうも冷たい態度なのか?
これは孫権の思春期の体験によるものではないかと妄想します。
孫堅が死亡した時、周瑜個人は友情も変わらず雪中送炭したはずですが、周家全体では孫家は利用価値無しと見なされて手のひら返しをされ冷たくあしらわれた可能性が。
その時傷ついた少年の心が後に冷淡な態度となったのでないでしょうか。
周瑜は姓周的孫家人=嫁なのね😆)